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挨拶運動という悪しき風習について

 日本の学校では、朝、生徒や教師が校門近くに立って、登校してくる生徒に対して挨拶をするという風習がある。今現在も無くなってはいないらしい。
 中学生の頃、私は生徒会役員をしたが、そのときには、生徒から生徒会の活動として挨拶運動をしようという話が出たように記憶している。もちろん私は待ち構えて挨拶する側なので、学校に早めに行かなければならないが、やりたくなかったので毎回挨拶運動が終わる頃に登校していた。当時は言語化出来なかったが、挨拶運動はやるべきではないと思うには理由があった。
 挨拶とは何かという話だ。私は挨拶がコミュニケーションの潤滑剤であると考えている。同じ空間に複数の人間がいて、挨拶しないとどうなるか想像して欲しい。初対面の場合、話していいのかと躊躇するし、無言で距離感の探り合いが起こる。顔見知りだとしても、その日の機嫌がわからない。そんなとき一声かければ、その後のコミュケーションが上手く行ったりする。しかし意味のあることを言うのは、人によっては多少難しい。だから、おはようとかこんにちはとかは、意味はないが自然な一声として、非常に使いやすい言葉なのだ。
 そう考えると、校門の前に立って、生徒たちを待ち構えて行う挨拶運動なるものは、一体何の意味があるのだろうか。少なくとも、コミュケーションをとろうとは思わない。正直言って、挨拶される側としては恐怖ですらある。ズラッと並んだ教師や生徒会役員たち。さながら黒塗りの高級車から降りてくるヤクザの子分たちである。しかし、立場としては教師や生徒会の人のほうが上に感じる。恐怖でしかない。
 詰まるところ、挨拶運動は無駄であるどころか、弊害すらある。この悪習に教師は時間を使うべきではないし、生徒会はそんなことで活動してる感を出すべきではない。

 

 高校のときも生徒会役員をしているときに挨拶運動をしようという話が出たが、事前に潰すことができた。


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