香ばしい映画レビュー『花束みたいな恋をした』は壮大な皮肉だったのでは…
そこらへんにいる何事も中途半端で平凡な男女がクソつまらん日常を送りながら惰性で付き合い続けてマンネリして別れた話のどこに感動すれば良いのか分からず、「1mmも共感できず死ぬほどつまらなかった」というのが観終わった直後の率直な感想でした。そもそも花束みたいな恋をしたアイツらが手をつないで多摩川沿いを謎に5年もかけてゆっくりちんたら歩いている間に、私たちは何らかのスポーツカーに乗って首都高を法定速度超えで疾走しながら打ち上げ花火みたいな恋を何発もかましていたキチガイなので共感できるはずもなく、感性がバグってしまっている私たちがいけないのだと諦めかけていたのですが…
ですが…
あの坂元裕二が、何故このようなラブストーリーを作ったのか、なぜこれ程までに大衆に受けているのか、興味が湧いてしまったのでちょっくら紐解いてみようと思います。
そもそもこの映画は菅田将暉が、脚本家である坂元裕二に「ラブストーリーがやりたいんですよ」と話したことがきっかけで生まれます。
基本的に、ラブストーリーを作りたいんです。それがいちばん楽しいし、それだけを書いていたいんです。出自もそうですから。でも、単なるラブストーリーというだけでは企画が通らない。通すための強い物語を持たせないといけなくなって、恋愛の本質からどんどん遠くなっていく。シンプルな恋愛要素だけの話を書ける機会があればとずっと思っていたんです。難病ものでもなく、貧富の差でもなく、少女漫画的な要素もない、リアルな恋愛映画を作りたい。それが発端です。ごく普通の20代の男女が21歳で出会って26歳で別れるまでを日記のように描きました。ほぼ2人しか出てこないし、第三者が入ってきて2人の関係をかき乱すこともありません。実際の恋愛もそうですよね。劇的な三角関係ってそんなに起こることではないし、大学を出て就職して、社会とうまく折り合いをつけようとした2人の関係を描く。それだけで面白くなるはずだと思いました。
坂元氏は脚本を書く際に「古いと思われるのが一番怖いから、若者が見るためのものを作ろう」と常々思っているそうで。感想を検索してみると絶賛の嵐で、確かに若者に受けているし、アラサー世代も自分が若者だったころを思い出してエモい気持ちになっているようなので大成功なわけです。しかし私はこのような単調なラブストーリーがウケている現状に非常に絶望してしまいました。この映画は現代の世相を反映したものであり、現代の若者を、現代の恋愛を、リアルに描いているということなんですよね?53歳の脚本家に「若者ってこんなかんじでしょリアルでしょエモいでしょ」と二時間示され続けた私は終始ぞわぞわしてしまいました。
私は舞台となった2010年代を学生〜社会人として駆け抜けたドンピシャの世代なのですが、ここからは香ばしい視点を持った私独自の見解で、あえて香ばしく紐解いていきたいと思います。
まず、主人公に菅田将暉と有村架純が起用されていますが、劇中の設定として麦と絹は”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の人間”であり、二人はいわば大衆の象徴なのです。
脚本家の坂元氏は、麦と絹の5年分の日記を書いてから脚本を作り上げたらしく、この映画は恋愛映画というよりもそこら辺にいる普通の男女のドキュメンタリーといった方がしっくりくるかもしれません。そこら辺に転がっているような恋愛あるあるをかき集めてツギハギしたものなので、当然ドラマティックな展開も、ハラハラドキドキするようなシチュエーションも、刺客も修羅場もなく、平凡すぎる日常が淡々と進んで行きます。
したがって、”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の人間”=ほとんどの人間は非常に共感できる作りになっているというわけです。この映画のストーリーに共感して号泣できてしまった人間は、可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の人間としてクソつまらん日常を送りながら惰性で付き合い続けてマンネリして別れた経験が”少なからず”あるのでしょう。
終電を逃したことで出会った麦と絹は、居酒屋で二人で飲み直しながら好きな映画だとか本だとかを語り合って意気投合してお互いに好意を持ち始めます。こんなに趣味趣向が一致する人間に偶然出会えるなんて運命♡本当にお似合いのカップル♡と思える人は本当に純粋な心を持っているのでどうかその感性を大切にしてください。その方が幸せだと思います。私は拗らせているのでこのシーンも非常にシニカルに捉えてしまいました。
このシーンはサブカルっぽい固有名詞がバンバン出てくるのでサブカルなんてよくわからない大半の人間は、麦と絹は”サブカル好きの個性的な人間”なのだと認識してしまうと思うのですが、私が思うに麦と絹はガチモンではなく完全にニワカです。(というか実際このサブカルの羅列は時代感にリアリティを持たせるために使われている小道具に過ぎないのですが)。麦も絹も固有名詞を羅列するだけで、どこがどういう風に好きなのか、どんな感想を持っているのか、一切何も語らない。全く深い会話が交わされることはない。それっぽいものを広く浅くかじっているだけで熱く語り合えるほどの情熱も愛情も感じない。それっぽいワードを口に出すことに意味があるかのようで、自分はそういう属性の人間ですよと暗にアピールするだけで、自分自身がどういう人間なのかは自分自身の言葉で全く伝えない。このシーンは、二人が、というかニワカサブカルが、というか大衆が、いかに薄っぺらい人間なのかということを表してしまっている皮肉なシーンだと感じてしまいました。
常々思っていたのですが、ほとんどの人間の会話って、どこに行ったとか、何が好きとか、どんな映画を観たとか、固有名詞を羅列しているだけで、どこに行って”何を感じたか”、何が”どうして好きなのか”、どんな映画を観て”何を思ったのか”、なんて一歩踏み込んだ思考もせずに、一歩踏み込んだ会話もせずに、フワっと流れてフワっと終わっていきますよね。
『花束みたいな恋をした』を観たって「感動した〜」「エモかったね〜」ってたった一言言い合うだけで、何がどう感動したのか自分の心を深堀りして言語化して自分の言葉で他人に伝える人間なんて全然いない。実際にツイッターで検索をかけてみても「花恋観にいった〜」という事実に「まじ良かった」「泣いた」「感動した」「おもしろかった」というありきたりな一言が添えられているだけで、何がまじで良かったのか、なんで泣いてしまったのか、何がどう感動したのか、ということを誰も語っていないんですよね。私としてはもっと深堀りして貴方の言葉で教えてくれよ〜と思うわけです。
現代の若者ってインスタでコミュニケーションを取ることが多いのですが、あれは最たるもので、旅行先の地名、レストランの名前、ホテルの名前、乗ってる車、服のブランド名など固有名詞の羅列のオンパレードで、何を感じたかなんて全く重要視されない世界なのです。それこそ写真に一言「エモい」と添えれば成立してしまうのです。でも結局現実世界でも中身なんか見ずに身につけている記号で人を判断してしまう人間ばかり。記号が似ていればとりあえず仲良くできてしまう。でもそれってうっすい関係ですよね。麦と絹もまぁ当たり前にうまくいかなくなるだろうなと思うわけです。
”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力も個性もないそこら辺にいる普通の人間”というのは個性的な人間に憧れを持っていて、あわよくば自分も個性的な何者かになりたいと願っているような気がします。例えばADHDだと思い込んでいる凡人とか、サイコパスに憧れている凡人とか、メンヘラになりきってる凡人とか、サブカル気取ってる凡人とか、そういう凡人が非常に多いと思うんですよ。大抵の人間って何の個性もないくせに凡人で終わるのは嫌だけど努力はしたくなくて、自分にもどこかしらヤバイところ(個性)はないものかと必死で探して、ただ単にだらしないだけなのにADHDぶってみたり、ただ単に性格が悪いだけなのにサイコパスぶってみたり、ただ単に精神が未熟なだけなのにメンヘラぶってみたり、何らかの個性的なレッテルを張ることで無個性な自分を個性的な人間に仕立て上げたがっていると思うのです。
特にサブカルチャーというのはメインカルチャーと対比される概念なので、王道から逸れたもの、マニアックなもの、みんなが好まないもの、みんなが知らない知識をかじってそれらを好んでいるだけでサブカルのレッテルを貼れるので、簡単に個性的な人間になれたような気分になれるし、わかりやすく自分は個性的な人間ですよとアピールができる便利なレッテルなんですよね。個性というのは本来中身から滲み出るものだと思うのですが、中身なんかなくても個性的になれてしまうという。
(話は逸れますが、youtubeもinstagramもtiktokも凡人の吹き溜まりですよね。本来有名になるには何らかの突出した魅力や功績が必要なのですが、この世界では日の目を見ないはずの何者でもない凡人たちが、非凡な企画をやってみたり、非凡な美人になれるフィルターを使ってみたりすることで有名になれてしまう。一般人に憧れる感覚がよくわからないのですが、この映画に共感できてしまう人たちは、凡人の星であるyoutuberとかインスタグラマー とかに憧れることができる人たちなのかもしれません。何者でもないくせに努力も才能もなしに何者かになりたがる凡人を極めると、そのうち西野亮廣に感銘を受けて『えんとつ町のプペル』を何プペもしてしまうようになるのでしょうか。西野が教祖になれるこんな世の中に、youtuberが億り人になれるこんな世の中に、彼らを支持する凡人が山ほどいることに、私は絶望してしまうのです。)
序盤のシーンで、絹は好きなお笑い芸人のライブに向かう途中で"過去に一度デートしたことがある男"にバッタリ会って久々に食事をする羽目になります。せっかくチケットを取っていたにもかかわらず楽しみにしていたライブに行けなくなってしまうのですが、ここで私は思うわけです「いやいやそんなに楽しみにしていたなら一言断って行ってこいよw」「男と街でバッタリ会っても適当にスルーしろよw」と。好きでもない男にズルズル流されて、ラーメン食べてお腹いっぱいなはずなのに焼肉に行って、楽しくもないのに愛想笑いを浮かべて無駄な時間を過ごしている絹をみて、この女は受動的ヤリマンだと確信しました。この男が強引に押していたら絹は絶対にやっていたでしょう。まぁ結局この男は絹よりも可愛い女にあっさりと乗り換えて消えてしまって、自分の無価値さを突きつけられ、絹はこう思うのです「余裕あっていいかもって思える男は、大体こっちを見下してるだけ」
絹のような”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の女”って結構簡単にやれると思うんですよね。だって確固たる意志も信念もないから特出したスペックもなくて魅力も滲み出てこないわけで。もう大学生なら自分は何の価値もない人間だという実感を持ってしまっているはずなので、こういうタイプは他人に求められることで自分に価値を見出すのでワンチャンであろうと股を開いてしまう。流されやすくてNOといえない大人しそうな顔をしている受動的隠れヤリマンって目立たないだけで日本に割と多く生息していると思うんですよね。ここも皮肉なシーンですね。絹のパーソナリティというか、現代に生きる若い女性の生態を表しているようです。
終電を逃した後居酒屋で、麦は趣味で作ったガスタンクの映画の話をして「今から見に来ます?」と家に誘います。絹は好きでもない男に流されて焼肉に行ってしまうような受動的ヤリマンですねら、少々気になる麦に誘われれば初対面でも余裕で家に行っちゃいうわけです。正直相当つまんない映像なので、絹は内心「あ〜眠いな〜」と思っていただけで何の感想も抱いていないのですが、麦は自分の好みを尊重してくれた優しい絹にキュンとするのですが。でも絹は優しいわけでも尊重していたわけでもなく、ただただ受動的に受け入れていたに過ぎない。絹は途中で寝てしまったのですが、麦はそっと毛布をかけて終わります。終電を逃した女の子が初対面にも関わらず自分の家に上がりこんで無防備な姿で寝ているなんて、アルファオスであれば確実に何らかのアクションを起こしていたと思うし、何らかのアクションを起こされていたら受動的ヤリマン絹は確実にやってしまっていたでしょう。しかし麦は”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の男”ですから、初対面の女の子に対して何らかのアクションを起こす度胸も気力もない。そういう男が真面目だとか良い人だとか優しいとか評価されることがありますが、別に実際は真面目なわけでも良い人なわけでも優しいわけでもなく、ただアクションを起こす度胸も気力もないから結果的に無害になってるだけなんですよね。絹が受動的ヤリマンだとすると麦は受動的良い人。このシーンも世相を表していますね。
その後、何度かデートを重ねて終電間際にやっと告白して付き合い始めるのですが、胸が張り裂けるほど好きになったというわけでもなく、「3回ご飯食べて告白しなかったら友達になってしまうよ説あるし」ということで告白に至ります。ここでもお互いのどんなところが好きなのか語ることはないし、好きという気持ちを言葉では伝えないのです。確か、結局この映画の中では、一度も「好き」という言葉は出てきませんでした。坂元氏が20年前に脚本を書いた「東京ラブストーリー」では第1話のしょっぱなで「カンチ、愛してる」って言っちゃってるので、時代が大きく変わったのでしょうね。
絹は付き合い始めの楽しさにかまけて、就活説明会をすっぽかして麦と過ごしてしまうのですが、やっぱり流されやすい女ですよね。絹が就活で圧迫面接を受けて精神的にやられるシーンがあるのですが、”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の人間”というのは、就活が人生で初めてぶち当たる壁なんですよね。特出したスペックのある人間は、もっと早い段階で死に物狂いで勉強したり死に物狂いで部活に励んだり、死に物狂いで何らかの努力をしてスペックを身につけてきたわけで。だからこそ自信に満ち溢れ魅力的なわけで。”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の人間”は今までになんの努力も葛藤もしたことがないので、就活面接で詰められても自分の言葉で何も語ることができない。圧迫面接が辛くて泣いてるんじゃなくて、自分の無能さを突きつけられたことが辛くて泣いてるんですよね?
結局二人は大学卒業後フリーターになり、麦はイラストを描き、絹はジェラート屋でバイトを始めます。就活というチャンスがあったにも関わらず、結局自分自身と向き合うこともなく、人生を真面目に考えることもなく、なんの努力もせず、なんの信念もなく、楽な方に流されて惰性で生きているというわけです。麦は好きなことを仕事にしている分まだましだと思ったのですが、クライアントに提示されたイラストの単価がたった1,000円で、それを甘んじて受け入れてしまう。結局プライドもないしスキルアップするための努力もしないしょうもない男ということです。二人はやっと自分たちが”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の人間”であることを受け入れ、このままではマズイと初めて危機感を覚え、生活のために就職を決意します。絹は歯科医院の受付、麦はネット物販中心の物流会社。とりあえず受かったところに入っただけ。麦はあっけなくイラストレーターの夢を捨ててサラリーマンになり、社会に毒されてどんどん変わっていって、好きだったはずの漫画も読まなくなり、ゲームもしなくなり、小説にも共感できなくなり、パズドラしかやらなくなり、目も死んでいき、生活が雑になり、パートナーに対する思いやりもなくなっていきます。「現代人って結局こんな感じの人が多いでしょ」ってこんな風に描かれてしまうことに、私はまた絶望を感じてしまうのでした。
麦と絹は、相手のことが好きというより、"自分と同じものを好きな相手"が好きだっただけなので、好きなことを共有できなくなるにつれ、関係は終息に向かいます。私はお互いの好みが合うことよりも、互いの好みを尊重し合える方が尊いと思っているので、同じ部屋にいるのにそれぞれ違うことができる関係が至高だと思っています。例えば同じ部屋にいて一緒にソファに座っているのに片方はテレビを見ていて片方は本を読んでいる的な。家族だったら平気でできますよね。表面的な行動を共にしなくても深い部分で繋がっていられるのが本当の絆だと思うのです。しかし自分が確立していない人間というのは、己自身で相手と繋がることができないので、目に見える繋がりが全てになってしまうのかもしれません。記号を介することでしか己を表現できず、記号を共有することでしか仲を深めることができないのでしょう。
一方、絹は好きなことを活かせる仕事に出会い、その会社の社長であるオダギリジョーの膝の上で酔っ払って寝てしまうというヤリマンっぽさを再び露呈します。オダギリジョーに「ラーメンでも行く?」と誘われたとことでそのシーンは終わるのですが、これもう100%やってますよね。重要なシーンをあえて描かないことで視聴者に解釈を委ねているか、思い出を汚すようなシーンをあえて描かないことでエモく仕上げているのか知りませんが、やってないと思う人は相当純粋な心をお持ちですのでどうかその感性を大切にしてください。別れた後に「一回くらいは浮気したことあったでしょ」と聞く場面があるのですが、絹は意味ありげな表情を浮かべるのです。絹的には「私が浮気してたの気付いてなかったの?wえ?wあんなに私を放置してて?wセックスレスだったのに?wてか生まれて初めてイカせてくれたのはおまえじゃなくてオダギリジョーだったよwハハハ…」ってな感じでしょう。男は一生気付かないのでしょうね。男って単純なので見た目が派手=ヤリマンだと思っている節があるので、絹のように”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の女”のことは浮気なんかするはずがないと思い込んでいるようですが。こういうタイプこそバイト先の先輩や職場の先輩(既婚者)とかと簡単にやっちゃってると思うのですが、まぁ男はずっと気付かないのでしょう。絹はきっとオダギリジョーにガチで告白されていたら麦なんか振って即効乗り換えてると思うんですよ。でも実際は告白されることなどなくワンチャンで終わるか都合の良い女としてセフレ化されるのが相場でしょう。だから別れることなく5年も続いたのでしょう。決して“一途だから”5年も続いたというわけではないのです。こういう事実に気づくことなく「花束みたいな恋」だとか言って過去を美化しているのが滑稽に思えてしまうのです。
”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の人間”って結構彼氏彼女と長く続いているイメージがあるのですが、単調な日々を過ごしているのでそもそも出会いが少なく、稀に魅力的な異性に出会えたとしても恋に発展するほどの魅力が己にないので、既存の彼氏彼女と別れるキッカケも理由もないからダラダラと続いていってしまっているだけのことだと思うのですが、それを世間では純愛というのでしょうか。まぁまぁ好きな相手と、まぁまぁなご飯を食べて、まぁまぁなセックスをして過ぎて行くまぁまぁな日々を、世間ではエモいというのでしょうか。
このような映画を「エモい」の一言で片付けて終わらせずに、是非自分の人生を振り返りながら、自分の人生を照らし合わせながら、自分自身と向き合いながら、何がどうエモくてどこに感動したのか自分の言葉で語ってみてほしいと思うのです。こういう映画は「興味ない」と思った人も「つまらない」と思ってしまった人も、たった一言で切り捨てずに、何かを感じることを放棄せずに、なぜつまらないと思ったのか自分の感性を言語化してみてほしいなと思いました。
この映画はかなりフラットに作られているので観ている人の感性が炙り出される気がします。私はやっぱり己の香ばしさが炙り出されたのでした…。