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『花束みたいな恋をした』を観ても全く泣けなかった私たちについて

先日、『花束みたいな恋をした』を観て号泣できた人間を香ばしくレビューしてしまったのですが、今回は逆に1mmも涙が湧き出なかった私のことを冷静に分析してみたいと思います。

(インタビューを見てみたのですが、菅田将暉くんが「特に既婚者のおじさんたちが映画を観て抉られて元カノの話を永遠としてくる」的なことを言って引き気味に笑っていたり、有村架純ちゃんが髪の毛を乾かしてもらうエモキュンシーンについて「自分で乾かした方が早いと思う」と冷めた目で言い放っていたりして、もしかしたら彼らもこちら側の人間なのではと香ばしいお気持ちになってしまいました。)

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この映画は、主人公の生い立ちも修羅場も葛藤も別れの理由も、従来の映画であれば重要であるはずのそれらのシーンが全くといっていいほど描かれていません。よって、主人公の気持ちになって感動するということが不可能で、感動する為には主人公に自分自身を投影して重ね合わせる必要があるのです。主人公の人物像や出来事を詳細に描いてしまうと、「自分とは違う人間の物語」として他人事に感じてしまうので、自分事として感じさせるために意図的に排除しているのかもしれません。号泣できた人は「麦(絹)は自分だ!」「麦と絹は私たちだ!」と感じたのではないでしょうか。

趣味が合って意気投合したとか、カラオケで歌いたい曲が完全一致したとか、髪の毛を乾かしてもらったとか、缶ビール片手に夜道を歩いたとか、信号待ちでキスしたとか、一つのイヤホンを分け合って音楽を聴いたとか、同棲して気まずくなったとか、この映画で描かれていることは恋愛あるあるの寄せ集めなので、普通に恋愛をしてきた普通の人間であれば、誰もが簡単に自分自身を重ね合わせることができるはずです。私も一通り経験があります。

それなのになぜ、私は、麦と絹に自分を投影し、重ね合わせることができなかったのかというと、「価値観や思想が全く違うから」だと思うのです。

実は私も、調布に住んでるサブカルクソ野郎と京王線沿いでデートをしたことがあるのですが、彼らのように夜道を10km以上歩くようなことはせず、当たり前にタクシーで向かいました。彼氏と同棲したこともありますが、彼らのように郊外駅徒歩30分の築古アパートではなく、都心駅近の築浅マンションでした。どちらが良いとか悪いとかではなく、ただただ思想や価値観が違うのです。だから終電を逃して出会うシーンも、「いや、タクシーで帰れよw」と思ってしまうし、明大前から麦の家がある調布まで10km以上歩くシーンも「いや、タクシー乗れよw」と思ってしまうし、駅徒歩30分の築古アパートに住むシーンも「駅徒歩30分とかバカなの?w」と思ってしまって、主人公に自分を重ね合わせることが全くできず、自分事として感じることができなかったのです。

この極端に無駄を嫌う合理的な価値観って何でしょうね…。

たぶん”Time is money”的な価値観だと思われます。”Time is money”とはざっくり言うと”無駄な時間は機会損失”という意味なので、無駄な時間の中にエモさを見出す『花束みたいな恋』とは相容れぬ価値観なのです。これってアメリカ合衆国建国の父であり100ドル紙幣に肖像が描かれているベンジャミン・フランクリンの名言なんですよね。そろそろ臭ってきましたねえ

この映画に1mmも共感できず泣けなかったのは、資本主義に毒されてしまっていたからなのでは…とハッとしたわけです。

この映画では、”可もなく不可もなく特出した魅力も才能もない普通の人間”である麦と絹と対比させるように、その他の人間が配置されています。その中でも特に香ばしくシニカルに描かれていた人物が、西麻布で飲んでいるIT業界人と広告代理店で働く絹の両親でした。麦と絹に対するアンチテーゼとして、資本主義の象徴的な役目として使われているのでしょう。

好きなことを仕事にして生きる先輩が、「負けんなよ。協調性とか社会性って、才能の敵だからさ」と啖呵を切っていたのですが、結局酔ったままお風呂に入って死んでしまう残酷な描かれ方をしています。(都合良く脚本家に殺された感があって個人的には萎えポイントでしたが)「社会に出るってことはお風呂に入るってことなの」という代理店勤めの絹の母の台詞を絡めて考えてみると、協調性や社会性を身につけず才能に酔ったままフラフラ生きていると、いつか社会(お風呂)に殺されてしまうよというメタメッセージなのかなと、解釈できます。

私のレビューを見返してみると…

”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の人間”というのは、就活が人生で初めてぶち当たる壁なんですよね。特出したスペックのある人間は、もっと早い段階で死に物狂いで勉強したり死に物狂いで部活に励んだり、死に物狂いで何らかの努力をしてスペックを身につけてきたわけで。だからこそ自信に満ち溢れ魅力的なわけで。”可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もないそこら辺にいる普通の人間”は今までになんの努力も葛藤もしたことがないので、就活面接で詰められても自分の言葉で何も語ることができない。圧迫面接が辛くて泣いてるんじゃなくて、自分の無能さを突きつけられたことが辛くて泣いてるんですよね?

麦と絹のことを「可もなく不可もなく特出した魅力も才能もない凡人」と定義して、市場価値が低く無能であることを明確に見下しています。

クライアントに提示されたイラストの単価がたった1,000円で、それを甘んじて受け入れてしまう。結局プライドもないしスキルアップするための努力もしないしょうもない男ということです。

私は、たった1,000円しか稼げずにスキルアップする努力もしない麦のことを「しょうもない男」と形容しているのですが、これって「人は資本にとって役立つスキルや力を身につけて初めて価値が出てくる」という新自由主義(ネオリベ)的な価値観なんですよね…。

「スキルがないなら賃金を引き下げられて当然」「スペックが低い人間は無能」と、人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値、必ずしも金にならない価値というものを認めない。スキルアップによって高まるのは労働力の使用価値でしかないのに、私はいつの間にか労働力の使用価値を人間そのものの価値と直結させていたのです。ぞっとしました。私の魂はいつの間に資本主義化してしまったのでしょうか。いつの間にネオリベに包摂されてしまったのでしょうか。

その謎を紐解くべく、少し個人的な話を出すと、私は中学受験よりも早い段階で受験を経験しました。小学生の頃は麦と同じように、将来は絵を描く仕事をしたいと思っていたのですが、親に「絵では稼げないから趣味として楽しみなさい」とやんわり否定され、「良い大学に進学して良い会社に入りなさい」と諭されました。一緒に映画を観に行って同じく全く感動できなかったと死んだ目をしていた友人も、小学生の時点で将来の夢を諦め、1日12時間勉強して見事難関中学に合格し、一流企業に就職した人間です。私たちはかなり早い段階で競争社会に晒され、選民意識を植え付けられ、資本主義に毒されてしまっていたのでしょう。

この映画の主人公である麦も、次第に資本主義社会に飲み込まれ、順調に毒されていきます。

「大変じゃないよ別に。仕事だから。取引先のおじさんに死ねって怒鳴られて、ツバ吐かれて。俺、頭下げるために生まれてきたのかなって思う時もあるけど、でも全然大変じゃないよ、仕事だから」
「(漫画や小説は)息抜きにならないんだよ、頭はいんないんだよ。パズドラしかやる気しないの」
「それは生活するためのことだからね。全然大変じゃないよ。好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」

(ブラック企業でワーカホリックですか?洗脳されすぎというか、毒されすぎというか、極端すぎる変わりように失笑してしまうwww)

「結婚しよ。俺が頑張って稼ぐからさ、家にいなよ。働かなくても、別に家事もしなくても、毎日好きなことだけしてればいいよ」

(うわー、こいつ完全に昭和的価値観引きずってるモラハラ予備軍じゃん。将来専業主婦の妻に対して「誰が稼いでると思ってんだ?誰のおかげで飯食えてると思ってんだ?」「家事育児はお前の仕事だ、責任を全うしろ」「バリューを出せ」とか言ってきそうwww)

私たちが完全に資本主義に毒されていたとすれば、麦が社会に飲み込まれ、社会の歯車として生きていく姿に自分を重ね合わせることができたはずなのですが、それもできなかった。なぜなら麦に比べてだいぶ早い段階で資本主義的な価値観を内面化してしまった私たちは、この価値観で生きた先に幸せがないことにとっくに気付いていて、このような価値観や生活から脱却を試みている最中だったから。だから社会人になって初めて資本主義社会に翻弄される麦を見ても「わかる」とはならないし、「今更そのフェーズかよ」「バカだなぁ、その先に幸せはないよ」と、全く他人事として冷めた目で見てしまったのです。

以下、私のツイートを抜粋します。(もがいている様子が伺えます)

「物質的な幸せは簡単に手に入れる事ができる。そんな幸せとっくに手に入れてしまっている。人から幸せに見られたいという欲求なんてない。相対的な幸せなんて虚像。他人との戦いから上がった人間は、己と向き合うフェーズに行く。」
「消費しても満たされないことを知ってるので、創造したいんですよね。」
「可愛い顔も海外旅行も盛大な誕生日会も食べログ高評価店もエルメスもバラの花束もハリーウィンストンも物質的な幸せは極論金で買える。幸せのテンプレは消費行動を煽るために企業が作ったもの。手に入れたら終わり。買い続けなければ与えられ続けなければ幸せは持続しない。虚無」
「自分の為だけに生きるのもアリだが無我夢中で突っ走って全てを手に入れた時「あれ、何の為に生きてたっけ」ってなるんだよな。物質的な幸せは手に入れた瞬間になくなるし消費し続ける人生では心は永遠に満たされない。自分の為だけに生きるには人生は長すぎるし限界がある。いつか必ず壁にぶち当たり詰む」
「全てを手に入れてきてわかったことは、どんなに欲しいものを手に入れても満足することはないということ。無い物ねだりなマインドを捨て、今ある当たり前に感謝して大切にできる人が幸せな人。幸せとは状況ではなく心の状態なのだ。」
「幸福というのは心のコンディションであって人間が置かれている境遇ではない。だから他人が人の幸不幸を判断することはできないし、どんな境遇であっても心のコンディション次第で幸せにも不幸にもなれる。全ては自分次第」
「”普通の人”が一番幸せなんじゃないかと思う」
「周りを見て精神的に満たされて幸せそうなのってマイルドヤンキー精神を持ち合わせている子が多い。世田谷〜たまプラーザ〜横浜辺りに住んで、ロンハーマンが好きで、犬連れてカフェでお茶して休日は家族でコストコ行って夜は友達大勢家に呼んでゲームしたりボーリング行ったり。とにかく等身大で普通を極めてる」
「あらゆるマイナスの感情が湧かずとにかく穏やか。何か特別なことをしなくてもただ生きているだけで楽しいと感じる。自分にとって何が大切か明確になり迷いや雑念がない。目の前のことに打ち込み感謝するばかり。人生で今が一番幸せかもしれない。この心地良い感覚をここに記録しておく」
「幸せになりたい!ってよく聞くけどさ、幸せってもんはなれるもんじゃなくて、感じるもんだと思うんですよね。幸せはすぐそばにあるよ、感じるか感じないか、ただそれだけのこと」
「幸せとは求めるものでも探すものでもなく、今そこに在るものだからな。気付くか気付かないかだけだから。」


私たちが生きるこの社会は、仕事をするにも、恋愛をするにも、結婚をするにも、市場価値の高さがものを言いますよね。でも結局、いくら自分を磨いても、いくらスキルを身につけても、労働者階級でトップに君臨していたとしても、資本家階級でトップに君臨していたとしても、残念ながら両者共に幸せそうには見えなかった。常に競争し、比較され、搾取し、搾取され、金がものをいう資本主義社会のモノサシの中で幸せを感じ続けるのは、困難だと思います。

では、どうしたら人は幸せになれるのかというと、結局は『花束みたいな恋をした』のように、平凡な毎日の中から小さな幸せを見出したり、当たり前の日常に感謝したりする姿勢が大切になってくるんですよね。

悲しいかな、一度資本主義社会に毒されてしまった人間がそのような価値観に回帰するためには、出家したり、マ●ファナの力を借りたり、瞑想を極めて悟りを開いたり、マインドセットを何らかの方法でぶち壊さなければならず、結構難しいのです。(私も、もがいている最中であります)

(暴論ですが)だから大人になると子供が欲しくなる人間が多いのかもしれません。社会に出て資本主義的な価値観に染ったまま生きて行くと、いつしか幸せを感じられなくなってしまうから。自分一人では”平凡な毎日の中から小さな幸せを見出したり、当たり前の日常に感謝したりする”ような人間にはなかなか戻れないと気付いてしまうから。子供の目線に立って、子供の純粋な感性に触れて、子供と共に人生を歩むことで、”平凡な毎日の中から小さな幸せを見出したり、当たり前の日常に感謝したりする”ことが再びできるようになるのかもしれません。(個人的に自分の周りを観測すると、子供が欲しくないという人はブランド物を買ったり旅行に行ったり記号的消費社会に疑問を感じることなく単純に幸せを感じているか、そもそもこの世に絶望し切っているかの二択な気がします。子供がいる人たちは、”平凡な毎日の中から小さな幸せを見出したり、当たり前の日常に感謝したりする”感覚を順調に取り戻していっているように見えます)しかし、子供が社会に進出するにつれ「お受験」だの「100点じゃなきゃ意味がない」だの「SAPIX」だの「良い大学に入って良い会社に入れ」だの、浄化されたはずのあの価値観が蘇ってきてしまうのですかね。この世が資本主義社会である限り、この世界をサバイブする上で必要な武器を身につけさせるための親の愛情なのかもしれないけれど、親世代のように盲目的に洗脳させて資本主義社会の歯車として育てるやり方は、どんどん廃れていって欲しいなと思います。

ここまで書き上げてみて『花束みたいな恋をした』に感動できた人々を少々ディスり気味に香ばしくレビューしてしまったことを少し反省したくなってきました。彼らはとても純粋でとても幸せな人間なのだと思います。

可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もない凡人としてつまらん日常を送りながら惰性で付き合い続けてマンネリして別れた恋を、『花束みたいな恋』と感じて涙を流すことができる感性って素晴らしいですよ。

可もなく不可もなく特出したスペックも魅力もない凡人でも、本来人間は存在しているだけで価値があるはずなのです。平凡な日常をつまらないと切り捨てずに、小さな幸せを見出し、当たり前の日常に感謝する。これは幸せを感じるためには、とても大切なことだと思います。

麦もGoogle earthに映り込んだ自分を見て、この上ない喜びを感じていましたよね。あんなに些細なことに喜びを感じることができるなんて、彼は幸せな人間だったんですよ。

(余談ですがあのシーンについて、Googleは監視社会の象徴、顔にモザイクをかけられた状態は代替え可能な歯車の象徴、だと感じたのですが実際はそんなに深い意味は無さそうです。坂元氏が民放ドラマの脚本執筆時にGoogle検索のシーンを入れたことがあったらしいのですが、ドラマではGoogleという固有名詞を使えなかったらしく残念な思いをしたそうで。民放ドラマでは実現できなかったこと(固有名詞を出しまくるなど)を映画でやりたかったのかなと思います。Google担当者が坂元氏のファンだったこともあり、Googleを登場させることができたらしいです)

私は既存の価値観や生活から脱却を試み、今は好きなことをしながら悠々自適に生きています。それなのに、この映画を観て、更に掘り下げてみると、自分の中には未だに悪しきネオリベ的な価値観がこびり付いているのだということを実感するに至りました。資本主義的に考えれば、マネタイズもせずに一銭にもならない文章を書くことは無駄な時間なのかもしれません。レビュー記事は数十万PVを叩き出しましたが、金銭的な利益を優先するよりも、より多くの人の目に触れることを優先して無料記事にしました。その結果、多くの人がリアクションをくれたことに私は喜びを感じました。私自身もこの記事を書くことによって、自分の闇を紐解くことができて、幸せに一歩近付けたような気がしています。

ただ映画を観て終わるのも、ただ男とデートをして終わるのも、ただ女とやって終わるのも、対象そのものを、時間を、お金を、消費しているだけに過ぎません。消費しているだけでは楽しさは底知れているし、幸せに天井があります。そのような生活を繰り返していると、消費した瞬間に一瞬感じる快楽を繰り返すことでしか幸せを感じることができなくなるのです。

だから私は「つまらない」とただ消費した映画に対し、こんなに時間をかけて丁寧に紐解く作業をしたのかもしれません。何事も消費するだけに留まらず、一歩その先に踏み込めば、面白い世界が広がっていくのかもしれません。何かに対して「つまらない」と感じた時は、資本主義社会の歯車としてお賃金労働したお金で何かを消費するだけの受動的な人生から一歩踏み出してみるのも良いかもしれません。私もみんなも、もっと幸せになれますように。(合掌)

(え、なんか私、「花束みたいな恋をした」に毒されてない…?私の芸風である香ばしさが半減してしまっている気がする。いや…こんなの私じゃない…。もう二度と花束みたいな恋をしたについては考えない…)

以下は、『花束みたいな恋をした』に登場していた"IT実業家"と"広告代理店に勤める私の元彼(と男友達)"と"矢沢永吉"が完全に繋がってしまった小話です。

最後に結論を出したのですが、矢沢永吉が出した人生の解と、この映画を紐解いて出た私の答えが完全一致する奇跡が起きました。

元彼や男友達の会社が特定される恐れがあるため、こちらは全く拡散されたくないので初めて有料設定にしてみたいと思いますw

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