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間違い続けた僕の人生②



前述した通り、小学5年生までの経験を述べたのだか所々記載し忘れていた事件等を思い出したのでこちらで付記しておく、、

小学校女児生き埋め事件

文字面で見るとエゲつない事件に感じられる。起こったのは小学校5年生の冬季頃である。

その頃は随分と村八分に対する体制が付いてきた者が多く、息をするように悪口を言い良心は麻痺してきたのだろう

そこで今回の標的はなんと女子生徒のSさん
Sさんはクラス1、2を争う成績優秀生徒だった。しかし、残酷なことに公立小学校の中で勉強が出来るという格付けはスクールカーストにおける優先度は低く運動がとことん出来なかったSさんはクラスで孤高、悪くいうなら陰キャとして位置していた。そんなSさんだがTさんと仲は良く、度々親衛隊に混ざり遊んでいたこともあった。

しかし、前述した通り何が気に障ったのかTさんの村八分を食らうことになった。本当に何の理由がなくとも本人の気分次第で村八分を行う、理不尽な選別を行っているのだ。

小学生の昼休みと言えばだいたい遊ぶことは限られ、サッカー、バスケ、鉄棒、鬼ごっこ、ドッジボールといった陽キャ球技が全般行われていた。しかし、冬季ということもあり外には雪が降り積もっていた。新雪の中何の汚れもないパウダースノーに小学生ならば誰もが興奮せざるを得ないだろう。なのでTさんや親衛隊は冬季になると皆、厚いジャケットとブーツを履き雪合戦をよくした。しかし、私たちTさん親衛隊が行う雪合戦は少し違ったのだ。というのも雪合戦は一定数の人が無作為に雪玉を投げ合いわきゃわきゃして遊ぶのが定例と思われるのだが親衛隊が行う雪合戦はまさに村八分仕様。Tさんは村八分で口頭での悪口は行うものの、実効的に拳を上げ殴ったりなどはしなかった。だが、雪合戦は半ば実効的な手段であったと言えるだろう……
なぜなら村八分仕様の雪合戦は
“Tさんが投げた相手に数秒間親衛隊全員で投げまくる”という地獄絵図の阿鼻叫喚仕様である。

1対1または無作為に投げ合うからこそ楽しい雪合戦も20対1になれば話は違う、それはもういじめだ。

しかし、いじめと薄々勘づいては居てもやはりいじめる側になりいじめる愉悦感が少しでもある限りやめられないのだ。人間の深層心理的な部分に近く根付く弱肉強食思考……

投げられる側がどんな凄い野球部戦士であろうと関係ない、無慈悲に下される20人の雪玉により相殺されなすがままに埋め尽くされる。いわば暴虐、こんな中更に思考を凝らした工夫を施す者もいた。雪の中に氷を詰め込み重量を増した雪玉によるドーピング豪速球を投げる者もいた。(いや、反則やろ……めちゃくちゃ痛かったし)また、何が面白いのか地面を掘り、土を内蔵した泥爆弾を顔面に投げつけ以後授業泥臭い臭いを充満させながら授業を受ける羽目になった者もいる。言わば村八分仕様の雪合戦は無法地帯。相手を苦しめることが出来れば何でもあり。自分がされて嫌なことを相手にする。本当に地獄のような雪合戦だった。

ところで話がズレていたがSさんは女児、そして非力な陰キャなのでもちろん雪合戦に参加するも他の女子と馴れ合いのような雪合戦をして遊んでいた。しかし、日頃の鬱憤と言わぬばかりにTさんがSさんに雪玉をぶつけた……
開戦の狼煙だ…私たちは当てざるを得ない。女子に優しいなどという手心は一切無し、自身が村八分にされることに比べれば何も痛くも痒くもない。そして当て続けた。Sさんは抵抗など出来るはずもなくなすがままに雪玉の餌食になり沢山の雪玉が積み重なった。そこで浴びせ終わった後一切動かなくなったSさんに対し新たな遊興と言わぬばかりにTさんは無言で雪をかけていく……
そうなのだ、海浜のビーチで砂をかけて人を埋める。その感覚でSさんを埋めたのだ。
(いや、物量と厚さ、それに寒いのだ……砂浜で人を埋めるのとは訳が違う…)

それにつられ他の者も雪をかけていく…学年の運動神経抜群の猛者たちに豪速球投げられ、ぐったりとしていたSさんに追い討ちのように雪崩が流し込まれる。当然助ける者など誰一人として居らず雪の中に上半身をズボッと埋めた様な異様な光景が出来上がった。しかし、誰一人としておかしいと感じる者はそこにおらず、昼休み終了のチャイムと同時にその日の村八分仕様雪合戦は終了を告げた。

まさにこの様な形でした。
恐らくこれより深く腰あたりまで埋まっていたでしょう

そして時は経ち、昼休み終了のチャイムを終え、汗を流した親衛隊達がクラスへ帰還し5限の授業が始まりました。そこで20分ほどした時先生が異常に気付く……   “Sさんが居ない”
そう、帰ってきていないのだ、Sさんが…
先生は急いで所在を確認するため生徒に事情を聴取する。
先生「誰か、Sさんがどこにいるか分かりますか?」

T「まだ雪で遊んでるんじゃないですか?さっきまで外で雪遊びしてましたよ。知りませんけど」
( “何を”言っているんだ……お前が生き埋めにして遊ぶだけ遊んでポイ捨てしてきてあとは知らない?だと?)

先生「分かりました。何人か外に出て確認してきてください。私は少し聴取します、後に向かいます。」

そしてようやく事態の重さを知った親衛隊はすぐさま汗の冷えた冷たいジャンパーを履き、外へ向かった。そこにあったのは30分前と変わらぬ…
“生き埋めとなっている御姿”
これはまずいと思い、親衛隊全員で引き抜き生死を確認した……
このまま誰にも助けて貰えないのではないかという不安を抱きながら、雪の中で叫んだが誰にも届かず、30分ほど抜けず過呼吸になりながら助けを待ち泣いていたという。本当に酷い話だ。他の女子に看病され、保健室へ運ばれたという……
その後は、Tさんがその事情を隠し、担任に届かず授業を開始したのか。説明をしたのだけれども担任が揉み消して授業を始めたのか未だに不明である。

いずれにしても本当に胸糞悪い話だった。それでも、次の日にはいつもの日常が戻り、何気ない日々が連続する。誰も何事も無かったかのように先日の話題には触れずいつもの他愛ない会話が続く、今思えばさすがに小学校でこの異様さで吐き気を催すレベルだ。無意識下で記憶の奥底に閉じていたみたいだ。話題に上がらなければ一生思い出すことはなかっただろう。

男児円形脱毛症いじめ事件

 ここでは自身が加害者、つまりは親衛隊だった頃にあった事件を述べていく…端的に言うとこれは親衛隊内部の話ではなく親衛隊による外部に対する余興的ないじめだった。本人に対して直接危害を加えていないにしても本人が感じた精神的苦痛は大きいだろうことだし、当時のことを客観的に俯瞰してもやはり凄惨ないじめだったとおもう。例のTさんは実行的に自身が手を下すことは少なく常に口頭の悪魔の囁きだった。

当時は、何が発端だっただったのかはよく覚えていないがいじめの被害者である“zさん”(今後はzさんと呼ぶ)zさんは親衛隊でなかったもののクラスでいうボケキャラといわれるような陽気な人だった。(陽キャとは言っていない) 彼はボケていじられるような人だった。しかし、いつからかそのいじりが加速していきいずれかそれは集団によるいじめになっていた。そうなってしまったクラス的な背景に恐らくTさんによる村八分による圧政が大きいと思う。

本件では、本人のボケによるいじりから毎日黒板消しを相手(zさん)の頭の上にぶつけるまでにエスカレートしたいじめだった。黒板消しを毎日zさんに当てたり教室のドア


壮絶な公立小学校を振り返って

恐らくここまで身体精神的的苦痛を感じた。小学生は、県内で私が知る限り無いだろう…苦痛などという生易しいものでは無く恐怖による圧政、逃れることの出来ない緊縛感。生きる意味さえ錯綜するような2年間だった。本当に辛かった、誰にも話さないし、集団に属していたというのに誰一人として味方はいなかった。この苦痛の2年間、小学校6年間を経て並大抵のことならば耐え抜ける精神力を手に入れた。(重なる弊害等も多々あるのだが)

ミニバス少年団アスペ編

これは番外編という括りだが自身の自戒も含めてやはり中学校編を語る上で欠かせないと思ったから長々と語ってしまいます笑

時は遡り小学校4年生へ、この頃から地域のミニバスケットボールクラブに入り、精神的にも身体的にも大きく鍛えられた。特に私の代は同学年が15人も居る大所帯で恐らく小学校6年生の時点でベンチメンバー15人がオール6年生になる無敵の軍団が作れるのでは無いかと騒がれていたほどである。なので当然レギュラーの競争率は激しく、もう既に小学校1年生から始めていた子達と小学校4年生から始めた私とでは大きな差がついていた。なので私は4年生の時点ではレギュラーに入れればいいな…程度に考えていた。この頃は初心者だったので1~4年生の混合キッズ試合に混ざり、その中の高年齢ゆえの体格で無双していた。なので入って数ヶ月、5年生に上がる前にすぐ普通の練習に混ぜられた。
時は進み5年生へ…昨年は6年生の代が強く、県大会まで出場していた。私はもちろんベンチ外で応援していたがやはり小学校6年生、それも県大会出場レベルの強さは私の憧れになるのに十分な輝きであった。そして、6年生最後の大会も終え、憧れの先輩も一線を退き、5年生主体のメンバー作りに入り始めていた。5年生はわずか2人しかいなかったのでレギュラーメンバー10人のうち、4年生が8人になるだろうと思い、頑張れば出れるのではないかという思いに馳せ、なお練習に勤しんだ。

しかし、最初の公式戦では練習こそとても頑張っていたものの、ボールに触れたいという自己中心さが害してベンチメンバーに入れては貰えたものの試合に出るということはほぼなかった。しかし、たまにヘマをした奴がいると交代要員として入りチームの流れを変えるべく奮闘した。ここしか見せ場がないので本当に最初から最初から最後まで与えられた短い時間の中走り回った。

その甲斐あってか、いつからか試合出場メンバーとして入れて貰えるようになり、安定して試合に出れるようになった。しかし、出れるもののやはり人一倍実力は足りず、いつも鬼のような監督に怒鳴り散らかされてチームの中の叱られ役を全うしていました(笑)…でも、与えられた少ない時間の中でプレーできるのがとても楽しく、たまに点を決めると自身がチームの役に立った、褒められている。という承認欲求から練習も新6年生の先輩のプレーをトレースして日々研鑽に走っていたと思う。しかし、その姿はやはり5年生の上位レギュラーメンバーからすれば自身の地位を揺るがしかねない危うい存在で1年未満でレギュラーメンバーに届きかねない鬱陶しい存在だったのだろうか。
「先輩のパクりキモイ」「イキってる」「調子に乗るな」悪意はなかったのかもしれない、単に地位に追われることに焦っていただけなのかもしれない、しかしその言葉は頑張る自分がチームに認められていない。自分が上手くなることがチームに求められていないのでは無いかと不安になったこともあった。それでもめげずに全て結果で残して誰にも何も言わせぬほど上手く上達することが出来た。 

そして、6年生最後の公式試合間近になるとレギュラーメンバーは当たり前、直前1、2回にスターティングメンバーいわゆるスタメンの交代枠として加えられることも増えてきて自身の実力が上がっているのだと実感することが出来た。6年生最後の試合こそ1度のスタメンとして出ることは出来なかったがほぼスタメンに遜色のない実力がついていることを実感できた。

そして、6年生は引退し、私たち15人の5年生が主体となる大所帯の6年生最強チームが出来上がろうとしていた。その中で誰がキャプテン副キャプテンをやるなのか、かなり討論した。それもそのはず15人いて実力順で行けば1年生からやっており、皆から信頼のある3人の中から2人選ぶという選択を皆強いられていたのである。だが、キャプテンはほぼ一致で決まったものの、副キャプテンが一向に決まる予感がない、練習時間も削りに削っての討論だったので監督もイライラしてきている。誰がが立候補しなければいけない。

緊迫した雰囲気の中…1人手が上がった

そう、何を隠そう、誰よりも目立ちたがり屋でADHD全開、保護者からも心配の種であった私が立候補したのである。2人の古参より実力も信頼も兼ね備えていない私だったが、皆は温かく了承してくれた。中には思うところのある人も多くいたのだろうが副キャプテンが決まらないこの状況を打破した私に異論を投げかけるものはいなかった。そうして身の丈に合わない、15人の6年生をまとめる副キャプテン5番に選出された私のミニバス最後の1年が始まる。

しかし、副キャプテンに選出されたはいいものの自身が副キャプテンたる実力を兼ね備えているかは別の話なのである。よくある話、いつもチームをまとめているものの、試合になって副キャプテンが試合に出れない。これは小中高、スポーツをやる上でとても惨めな事なのである、チームをまとめる重責を背負った副キャプテンが試合に出れないなんてなんて皮肉だろう、そのようなことがあるので私はより一層練習を頑張らざるを得なかった。

そして、最初の公式試合……まだスタメンが公表されていなく、この試合の中での活躍でスタメンを決めることは恐らく多くの6年生は理解していた。そして、予想メンバーに恐らく私の名前は無かった…だから、
「この試合の短い時間で見せるしかない。じゃないとこれからどれだけ活躍しようにも短い時間でしかアピールできない。」
そう思い、過去1番の全力を1Qで出し絞った。3Q4Qのことなど考えず今持てる実力を全て振り絞りアピールした…その後2Qが終わりハーフタイム時、スタメンの公表があった。

「4,5,6,9,12これがスタメンだ…」
私は念願のスタメン入りを果たしたのである。その時同時にベンチがザワついた…予想メンバーのうちスタメンに入っていたのは3人なのである。後の2人は1年生からの古くからバスケをしており、昨年の6年生がいる中でスタメンだった子が外されていたからである。

(えっ……〇〇じゃなくて〇〇なの?)

(えぇ…なんで〇〇じゃないの?〇〇だと思ってたのに…)

そんな声が続々と上がる…
(やっぱり、私はここにいるべき人間じゃないのかな…)そう少しネガティブに思ってしまった。
それもそうだ、1年生から頑張ってバスケをしていた人達が4年生になってから始めたような新参者に自分のスタメンとしての地位を奪われたのである、本人としても屈辱でしかないだろうし、仲のいい人達からしてもあまり気分のいい話ではないだろう。それがスポーツにおけるレギュラー争いという残酷な照準なのだ。

という混沌とした雰囲気の中後半戦が始まった。スタメンに選ばれた以上、本当にスタメンに相応しい実力通り結果で示さないといけないからである。今度は追う側から追われる側の立場になり、続々と私のミスに目を光らせ、交代、あわよくばスタメンの地位を奪い取ろうとするチームメンバーという、敵だけでなく、味方との闘争もあるのだと改めて自覚した。

結果からいうと、この1年間1度もスタメンを奪われることはなかったです。それだけ奮闘して、チームで2番の得点源になるスコアラーに成長できました。唯一の成功体験かもしれません。結果としても130戦112勝18敗という好成績、しかも少年団の地区大会は接戦で通過だったが、そこから更に成長を重ね県大会で全ての試合で接戦だったものの優勝できました。チームとしても信頼を勝ち取り、副キャプテンとしても責務を全うできたと思います。

U12地区選抜編

そして最後の大会の前、6年生は秋前に次のステージがあります、そう、“U12地区選抜”です。ここではチーム内だけでなく、地区の猛者たちが集まり合同練習を行い切磋琢磨しあう緊迫したステージなのです。ここでは夏頃から着々と練習会を重ね、選抜を行っていたらしく、秋頃に結果が届きました。(私たちは15人いたので何人選ばれるか不確定でした。)

結果選ばれたのは私を含め7人です。そう、ここで15人中7人選ばれました。チームとしても選びすぎではないかと言われるほど選出されました。選ばれた際はとても嬉しかったものの、数秒し、ハッと気付きます……

(選ばれてない人が8人もいる…しかも、スタメンの〇〇が選ばれてない…)

同時に冷や汗が滴りました。彼は選ばれるだろうと踏んでいたので意表を突いたかのようにポカンとしていました。当然でしょう、チームの誰もが選ばれると思っていたのですから……

そんな混沌とした雰囲気の中、選ばれたU12の選抜メンバーで更に同様の地区ごとに選ばれた選抜同士で戦い合い県選抜を決める新たなステージが始まりました。

正直小学校6年間の中でこの4ヶ月程の地区選抜で切磋琢磨しあったメンバーとの思い出が今でも何にも変え難い思い出として残ってます。今後ある全てのバスケ人生の中でダントツで1番楽しかった時期です。

さすがに頑張って切磋琢磨しあったと言えど広き地区の中で自分より強い選手は沢山いました。そもそもレギュラーメンバーにすらなれないだろう状況で自分より強い選手何人に自分からライバル視して1on1を乞い、今までの中で1番成長したでしょう。今後小学生の内で1on1で負けることはほぼないくらいには上達しました。至難の業でしたが一時期は地区選抜のスタメンも勝ち取れ、今でもたまに思い出しては良かったなと耽る事もあるほど本当に充実した青い春を過ごすことができた日々でした。

ミニバス編を振り返って

正直、村八分か行われていた地獄のような苦痛の小学5~6年生生活の中で本当に対照的にミニバスは自分が成長上達するのが嬉しく、楽しかったです。特にバスケに置ける精神的成長(村八分とは違う意味で)が私を大きくしてくれたと思います。やはりスポーツはとてもいいですね。


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