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「しない」と「できない」

私は「しない」だと思っていることを、「できない」と表現する人が多い。

私にとって「できない」は、赤ちゃんが歩けないとか、声帯を切除した人が話せないとか、心身を病んで働けないとか、それをしないととんでもなく深刻なトラブルに巻き込まれることが明白だったとしても、それでもするのが不可能なこと。それ以外のことは基本的にその人が「しない」だけだと思う。

普段、人は無意識にその行為に優先順位をつけている。早起き、ワークアウト、家事やらなんやら、もししなかったら誰か大切な人の命が危うくなるとしたら、ほとんどの人はそれを「する」はずだ。つまり、それは「できない」じゃなくて「しない」ということ。

でも、それを口に出すと「嫌だ~。こんなきつい人が私のお母さんじゃなくて良かった」と苦笑いされたりもする。そうか、これって「きつい」のかあ、と少し戸惑い、そこからまた「きついって何だろう」と思考が旅に出てしまう。私は誰かに「こんな人が私のお母さんじゃなくて良かった」なんて言わないけどな、と少し悲しくもなるし、私の娘たちは「ママが私のママでいてくれて本当に良かった」と言ってくれるけど、「きつい」ママで不幸だったのかな、とぼんやり思ったりもする。

私は「しない」が悪いとは全く思っていなくて、ただ自分の意志で「しない」ことをあたかも不可抗力のように「できない」というのは潔くない気がするだけなんだけどな。苦手だから、嫌いだから「しない」ことなんて、誰しも山ほどあって、それらを補い、助け合っていけばいいだけだと思う。そういう、フラットな関係の方が、「できない」が生み出す「できないあなたをできる私が助けてあげる」という、強者が弱者に手を差し伸べるような空気より好きだ。

誰かの「できない」をサポートするというのは、ごく当たり前のこと。誰かの「しない」に寄り添うことは、相手の弱さや甘えのおかげで自己変容が可能になること、ともいえると思う。

そういえば、早起きが大の苦手な長女は、確かに「私、早起きできない」とは言わず「私、早起きはしない」と言う。彼女が一時帰国したら、理屈をこねくりまわす母親に育てられた哀れな娘のたくさんの「しない」に、とことん付き合うのが今から本当に楽しみ♡

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