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「この料理は本当に手間がかかるのか否か」問題ではない気がしてならない

ポテサラ、冷凍餃子、鶏の唐揚げと、こんなにテンポよく炎上発言をする男性たちが発見されること自体に、現実味がなかったりするのですが、まあそれはそれ。

私が激しく驚いたのは、このネタに反応している女性陣が、別にお料理の手間のかかり方や、難易度レベルについての男性の無知に怒っているわけでない、ということを理解していない(できない?)男性が少なくない、ということです。

女性脳は共感を求め、男性脳は解決を求める、というのはすでに手あかのつきまくった「みんなの心理学」だったりするわけで、それも原因のひとつとなり、SNSなどで「この料理は手間がかかるのか否か」という話を公開している男女の皆さま。それは、ほんと、どーでもよい話なのでやめた方が賢明です。

感謝を口にすることを求められた父

私の両親は、父が働き家族を養い、母は専業主婦でボランティアなど報酬の発生しない社会活動を家事に支障のない範囲でする、というよくある昭和の中流家庭の夫婦でした。当然、三度の食事も原則として母が作っていました(※1父は士業で個人事務所を置いていた)。その役割分担に波風が立ったこともなかったわけではありませんが、ここでは大事な点ではないので端折ります。

そんな父の「昭和の夫」スタイルが、私が結婚し、孫娘たちができてから、容赦なく批判にさらされることとなりました。まずは、私がアメリカ人の元夫と結婚して間もなく、当時両親が夏を過ごしていた別荘に泊まりに行った時、初めて母が父に用意する朝ごはんを見て、

元夫「彼女は毎朝こんな朝ごはんを作ってくれるの?毎朝?」

父「そうだよ」

元夫「Wow。ヘルシーで美味しそうな朝ごはん」

父「普通の朝ごはんでしょ」

元夫「それで、ノリ(父)は毎朝『どうもありがとう、愛しい妻よ』とお礼を言ってる?」

父「言うわけない」

元夫「じゃあ、今日から始めたほうがいいよ。これまでの感謝も込めて」

父「このくらい作るの、手間じゃないから」

元夫「じゃあ、明日からノリが二人分作る?」

父「.......。」

妻を「きれいだ」と言うことを求められた父

娘たちが成長してからは、彼女たちからも言葉での愛情表現の少なさを責められました。母が新しい服を着ていたり、ちょっと髪型を変えると

「おばあちゃん、その服(髪型)素敵!よく似合う!」

とアメリカンスタイルで無邪気にほめちぎる娘たち。父がそれを横目で見ながら黙っていると、

娘「おじいちゃん!おばあちゃんすごくきれいじゃない?」

母「きれいって、おばあちゃんなんだから、きれいなわけないじゃない」

娘「そんなことない。すっごくかわいいよ!おじいちゃんもそう思うよね?」

父「.......。」

娘「おじいちゃんてば。思ってることはちゃんと言葉で伝えないとダメ!」

愛しい孫娘たちに詰め寄られ、父はキレ気味に「きれい、きれい、あ~きれい」、と「きれい」を連呼して、自室に閉じこもってしまったそうです。

母の言葉

そうした出来事を経て、ある日、母にこう言われました。

「あの人は、ありがとうも、きれいだね、も男性が軽々しく口に出すような文化で育った人じゃない。そうしたことを、ちゃんと言葉で相手に伝えるのと伝えないのと、どちらが良いのかといったら、伝えた方が良いのだろうとは思う。だけど、日々重なってできる年月の中で、言葉にはされなくても伝わりあっていることもある。だから、無理に『口にすべきだ』とは言わないよう、あなたから(元夫や娘たちに)上手く伝えて」

要するに、「言葉にされなくても私たち夫婦はわかりあってるから、外野がうるさく言うな」ってことですね。これはのろけです。仲良きことは美しき事。

そこには、言葉にされない愛情の枠組みがあるのか

お料理の手間の件に話を戻すと、「じゃあ、お前が作ってみろ」とか、「他人がしてくれたことにはすべからく感謝すべき」みたいな意見があり、それは正論だと思うのです。ただ、イラっとする側の人々についても、「相手が発したその心ない言葉が本当に怒りの原因なのか」という疑問がわくのです。

夫婦だけでなく、親子でも、友人でも、人間関係は晴天ばかりではありません。でも、雲が湧いたり、嵐が通り過ぎる、その空が「愛情」や「思いやり」という大きな枠組みの中に存在しているのであれば、人は心ない言葉を、案外簡単にやり過ごせてしまうと思います。

そこを根本的に見つめなおさないと、ポテサラ、餃子、唐揚げの後も、食べ物の種類はキリがないので、同じような議論の焼き直しが永遠に続くだけ。それ自体がプロレスみたいなもので、一種のガス抜きとしてあってよいのだということであれば、私は今後も外野でい続けようと思います。








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