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「決めた方を正解にするしかない」  コロナ禍で考える「あり得たかもしれない〇〇」への処方箋

あれは、クリスマスシーズンだったからだろうか?

民放番組でやたらとディズニー特集をやっているものだから、ここ数年、コロナで封印していたディズニー熱が場当たり的に再燃してしまい、勢いで入園チケットを購入してしまった。

後から悔やんでも、もう遅い。                    ほんの2週間前までは、東京でも数十人程度だった感染者数が、今ではあっという間に数百人超えである。オミクロン、恐るべし。

クリスマスから年末にかけては、ほとんど売り切れだったチケットは、正月明けの1月初旬からしか空きがなかったのもあり、妥協して選んだ日付が、ちょうど感染拡大と重なった。なんとなく嫌な予感はしていたが、ものの見事に的中してしまった。その上、関東では積雪の可能性さえ見込まれるという、ダブルでついてない日であった。

正直、相当、逡巡した。

普通に考えれば、感染拡大の最中に、好んで行くような場所ではないだろう。パーク内はもとより、行き帰りの電車の乗り継ぎまで、いたるところにリスクがある。万が一、雪の影響で交通機関に乱れが生じれば、凍える寒さの中、屋外もしくは屋内で数時間とどまることになり、感染の可能性はさらに高まる。

これはもう、さすがに行くべきではない。何度もそう言い聞かせつつ、脳裏に浮かんでしまったのは、パークに行くことができた場合の「あり得たかもしれない一日」だった。

舞浜駅に降り立った瞬間から始まる高揚感。入園してまみえる、神々しいシンデレラ城。思わずスマホを取り出して、満足のいくまで連写する数分。カメラ越しにパークを眺めながらうっとりと、自分は夢の国に来たんだという事実を実感する。夢見心地に浸りつつも、うかうかしてはいられない。一分一秒が惜しくて、急いでアトラクションの列へ向かう。そうこうしている間に、目当てのパレードが始まり、どこからともなく愉快な音色が聞こえてくる...これぞ至福のとき。

シンデレラ城

(↑7年前に訪れたときの写真)

当然なのだけれど、妄想すればするほど、余計に行きたさが募った。世知辛い世の中から、しばし解放されて、思いきり娯楽にひたれるひとときが恋しい。不要不急だとしても、そう思わずにはいられなかった。

理性では抑えきれない願望に、何度も気持ちが持っていかれたが、前日の夜中まで悩んだ挙句、泣く泣く苦渋の決断をした。

今回はさすがに見送るしかない…

あえなく断念した。

もともと、一緒に行く予定であった彼氏は、その決断を聞いて、こう言った。

「決めた方を正解にするしかない。迷ったら、答えを探すんじゃなくて選んで、選んだ方を正解にするしかない」

たかがディズニー、されどディズニー。侮れない教訓がここにあった。
コロナ禍で実感させられてきた、人間の力ではどうしようもない不条理を思い起こさせる。

コロナがなければ。
そんなことを言っても仕方ないのだが、コロナがなければできたこと、会えた人、培えた経験は確実にあったと思う。

私自身、大学を卒業して、会社に就職するタイミングで、コロナに見舞われた。
それこそ、卒業旅行はフロリダのディズニーに行く予定だったが、志村けんさんが亡くなられてコロナへの警戒心が如実に高まっていたために、キャンセルせざるを得ない状況だった。
卒業式は中止になり、総代に選ばれていたというのに晴れ姿を披露することも叶わず、大した自覚もないまま学生生活を終えた。

#今日入社式が中止になった日本中のみんなへ             「会えなくても、一生同期だ」

そんなキャッチコピーが話題になった春に、新社会人になった。
同期すらいなかった自分は、入社して3日目でテレワークを余儀なくされ、会社の人と打ち解ける機会を逸してしまった。
右も左もわからない中、手探りで仕事を始め、緊急事態宣言とともに月日を重ねた。
もちろん、ご時世なりの手応えもあった。新人ではあったが、自らオンラインの企画を打ち出して、会社のコンテンツ新設に一役買うことができたと自負している。

しかし、それらを差し引いてなお、コロナ禍で被った痛手は、私に大きな傷跡を残した。
製造業である限り、現場に出向いて吸収することが新人にとっては何よりの学びになることは疑いようもなかった。私はその機会に恵まれず、現場感覚を共有できないがゆえに、社内で孤立を深め、退職せざるを得なくなった。

努力次第で、多少なりとも修復できたことはあったと思う。けれど、もしコロナがなければ、感染を恐れて貴重な研修の場を先送りにすることはなかったかもしれないし、歓迎会や忘年会で、普段は話しずらい先輩とも、意外な形で接近できたかもしれない。どうしても、「あり得たかもしれない」別の自分を想像してしまうのだった。

仕事に限らず、些細な日常においてもコロナによって失われた可能性は、そこかしこにあった。あげればキリがないのだが、その影響を被らなかった人はこのご時世に一人としていないのではないかと思う。

ステイホームを強いられる中で、実感することのできた前向きな変化を認めつつも、コロナがなければ「あり得たかもしれない」ことがらに、無頓着ではいられない。
タラレバこぼして何になる。そう知りながら、現実を受け止め切れない自分がいた。

「決めた方を正解にするしかない」

先の彼氏の言葉は、だからこそ、自分に響いた。
誰もがままならなさを抱えた時代に、一つの処方箋になり得るものだと思った。

人間である限り、踏ん切りをつけられないことくらい、たくさんある。
しかし、どんなに嘆こうが、私たちの思惑どおりには収まってくれないのがコロナなのだ。

コロナを変えることはできない。変えられるのは、自分だけ。

そうであるならば、無念の思いで選び取った道を、がむしゃらにモノにしていくしかない。たとえ、しばらくは受け入れられなくても、いつの日かこれでよかったんだと、こっちを選んだからこそ今の自分があるんだと、そう思えるように。

そんな思いで、私は今この文章を書いている。ディズニーに行くことは叶わなかったけれど、「あり得たかもしれない一日」よりも、執筆に勤しんだ今日という日が、後の自分にとって、意味をもたらすことを願いながら。

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