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どうしようもない赤

noteで書き始め二年が経ちプロフィールアイコンにしていた猫が去年の暮に死に、今回初めてプロフィールアイコンを変えた。そのうち変えようとは思っていたのだが、このタイミングになったのは猫のこと、半年過ぎてそこから一ヶ月考え、変えることにした。随分前にこのnoteにも書いたが私は赤い。いや、コミュニストってワケでもないし、肌は病的に白かったからピンクかもしれないけど赤ら顔とかでもない。ああ、真っ赤な車ではあるね。とかなんとか回りくどい感じで書いているが、プロフィールアイコンにもしたけど髪が赤い。いわゆる赤毛っていう感じではなく水彩絵の具の赤を白いパレットに出し広げたような感じ。それは何らかの理由があるわけでもない、ファッションでもね。ただ生えてくるだけ。

生えてくるといっても実際は赤とは違う黒なので自分か自分であるために修正しなくてはならない。その作業は日常だがひと手間かかる。時に手を抜くとかき氷のイチゴが半分固まったような感じになってしまう。赤が落ち髪の白が出てきてしまう。確かに面倒くさい日常だが苦ではない。それが自分だから。

世の中では人と少し違う。見た目だけね。私自身は何も変わらないと思ってはいるが、皆と同じなんだと叫びたい、とか、そんなにナイーブでもない。実際はまったく同じではないしね。色眼鏡で見られるし外でも他人が急にイジっできたりする。気にしないしほとんどは珍しがっているだけ、若しくは好意的なものもたまにある。不思議に思う人もいるようだが、なにがこうさせているのてはなく自分だから仕方ないだけだ。

その見た目。人間は先ずは見た目だろう、それはエスパーでもない人間には仕方のないこと。だから服のことは分からずとも服装には気を配っているつもり。たがその出で立ちが世の中のスタンダードとはいえないね。それ以上にやはり見た目は髪からくる。嫌な思いもするがそれも仕方のないこと。小さいことだ。たが本当はそういう小さいこともなくなってほしい、人と少し違うだけだし、それくらいは許容してもいいのではないだろうか。人と違うそのような人間を警戒しないと子供とかを守れない、変わってるやつはおかしい奴、そういう考えを当たり前のように、新品のきれいなシーツを広げるように思い、いう人もいる。しかしそうではない。一日中Jpopを聞き続けてる人とクラシックを聞き続けている人、デスメタルを聞き続けてる人になんの違いがあるというのだろう。そういうもので人を判断してほしくないな。しかし一部の人は未だにそれだ。しかもそれは正と思っている。LGBTQの人々が努力により少しずつ認められているように、その視点で回りをみてほしい。ファッションでやっていてもいい、しかしそれがその人の本質、その人自身の場合はもっと深刻なことだとは思わないか。その場合はその人にはどうしようもないことで、やはり本質を見て知ってほしい。幸いなことに現時点でもあからさまに軽蔑や侮蔑の視線を送る人は少ないね。そういう場所としては幸せなのだろう。それをもう少し推し進めて、ただ単に人を人として尊重すればいいだけだ。それだけ。

以前書いたことと同じようなことを書いてしまった。実際自分が正しい病の人が多い気もする。面と向かって差別をされているわけではないけど、少し頭のおかしい人と思われたり見られたりしているというのは感じる。私はどう思われてもいいが、それでも考えてみるとそうじゃない世界に向かいたい。例えば有名人が不倫しただの、法律で縛られてもいないマスクをしていない人を断罪するだの、おかしな世界だ。自分が正しい病の人が蔓延しているのかな。なぜ自分は大したものでもないと思えないのだろうか。いやそんな風にネガティブに、自虐的に思うことはない。だが自信のある人は、なぜそれらがそれほど正しいとなぜ分かるのだろう。不思議だね。




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