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急がせるということについて

 日常に猶予なく感じることが常態化している。趣味などにおいて長い目で見て楽しみむことが気分的に難しくなってきている。週末の土日の二日間が最長の余暇であり、平日を通して楽しもうとする余裕がなくなっているのである。仕事が忙しすぎて、殺伐としていて、納期のお化けに憑りつかれているのだ。ああ、また明日から急ピッチでこなさなければ、そう思うと余暇はブツ切りになる。

 なぜ人はこれほどまでに急いでいるのだろうか。無理難題が舞い込み、それに応えようとし、結果として下げざるを得ない口角をパクパクさせてあっぷあっぷしている。焦ることアレの如し。そうして事を急ぐと自分個人だけではなく、周囲をも急かすことになる。そうしなければ実現に向かえないからである。なんという負の連鎖。余裕のないところで穏やかさを維持して笑顔をみせることは、そのうち至難の業となる。

 僕は誰かが急がされたり、何等かの事情で慌て、焦っている様子を見ると、とても可哀そうに思う。余裕がなく、狼狽えるさま、こんなことは極力さけなければなるまい。自分の大切な人が、余裕なく、焦り、狼狽える姿を見たならどうだろう。単純に可哀そうではないか。そのように追い詰められるなんて。余裕を奪うということは、自信をも奪うことにつながるのではないだろうか。かんじがらめのなかで尻を火炙りにされ、走らされる。慌てふためき、そのようななかでミスを犯す。当然であろう。もちろん社会活動のなかではそのような場面に出くわすことはままあるが、これが常態化するのはよくない。

 「時間がない」「早くして」「間に合わないぞ」これらの言葉は、誰かの心の底に定着する。夏場の道端のガムのように。余裕を奪うのは、その人の日常をも奪いかねない。業種にももちろん左右されるが、それほどの仕事とはなんだろうか。時間を奪われる世界からは離れるほうが良いようにも思われてくる。エンデのモモを思い出す。時間泥棒は余裕泥棒でもあるのだ。

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