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タイル / エッセイ

 私はタイルが苦手である。
 と、一口にタイルといっても様々で、湯気に烟る鮮やかな絵柄のモザイクなんかを見ると、「いいなあ」と思う。しかし、床に貼られたタイル、これは頂けない。想像しただけで背中が寒くなる。
 小さい頃から苦手なので、それより前に固定化された嫌悪なのだろう。どの体験が発端かおよそ検討はついている。それはトイレでのこと……いや、トイレというと語感が違う。便所での体験、これである。
 場所は忘れてしまったがいつかの夏、父の同僚のご家族と共にプールへ出かけた。そこは民間のプールだった。同行のご家族には小さな二人の兄弟がいた。この日が初対面であったために照れもあり、はじめはお互いに緊張していたがうちの弟がぽつぽつと喋るうち、けらけらと子供らしく打ち解けた。
 機嫌よくプールに入ってはしゃいでいると、水の冷たさからだろう、私はお小水を催してきた。皆に、
「おしっこ行ってくる」と言うと、
「俺も」
「僕も」
 などと結局ぞろぞろ連れ立って行くことになったのだが、この便所の床がタイルだった。おまけに身体から滴った水なのか的をはずしたお小水なのか、はたまたその両方かでびちょびちょに濡れている。履くはずのゴムサンダルも濡れ濡れで、トイレの入り口に転がっていた。うわぁ気持ち悪い、と私はたじろいでしまった。
 しかし信じられないことに、あとを追ってきた件の兄弟の下の子が、裸足でぺちゃぺちゃと状態も構わず入っていったのである。私には悲鳴ものであった。この時だろう、「床のタイル」と「不潔」という概念が、私のなかで強烈に結びついたのは。
 
 別の夏、これもプールでの出来事である。
 目玉となる設備は何もなかったが、広漠たる(自分が小さかっただけかも知れない)二つのプールが隣り合っていた。一つは臙脂色で、もう一つが水色の底をしていた。私の弟はまだ泳げなかったので、プールサイドを掴んで足を浮かせる練習をしていた。
 私は当時スイミングスクールへ通ってはいたものの、いつも手にはビート板、背にはヘルパー(胴に巻く浮き)を付けて、バタバタ暴れているのがやっとだった。だから弟とさして変わらない。
 私も弟の傍にぷかぷか漂っていた。二人とも小さい頭に大きなゴーグルを付けて、まるでトンボのようだった。
 水に浮ぶばかりでは流石に飽きてきた。見渡すと広大なプールである。こんな隅っこにいるだけでは勿体ないと、私は臙脂色のプールから水色の鮮やかなプールへと移動した。
 移ってみると心なしか子供が多い気がした。活気があってビーチボールが飛び交い、大きなシャチの乗り物が濡れ手にキュッキュと頻りに鳴っていた。
 さて、来たはいいが頭にゴーグルを巻いているだけで何の遊具も持っていない。それに私は一人である。水に入ったものの沖へ向かう勇気もなく、またプールの隅で肩まで浸かって河童のようにしているだけだった。
 するとすぐ近くで子供が泣き出した。見ると母親に抱かれた赤ちゃんがわんわん泣いている。水が怖かったのだろうか。おもむろに赤ちゃんを捧げた母親は、腰で水を分け分けプールサイドへ近づくと、その子を縁に座らせた。そこはプールとプールサイドの間に設けられた側溝のような部分で、打ち寄せられた水はそこを伝って排水口へと流れていくのである。
 あの子は何が悲しくて泣いているのだろう。私はぼんやり二人を眺めていた。
 その子が母親に抱き寄せられると尻のほうが少し持ち上がった。そのまま母親が赤ちゃんの水着の裾をごちょごちょやると、茶色い塊がこぼれ出たのである。
 私は絶句した。あれはウンコだと思った。私の目はウンコを見、赤ちゃんを見、母親を見、またウンコを見た。いつの間にか赤ちゃんは泣き止んでいた。
 やがて沖の活気が波となって押し寄せ、そのうねりに乗ってウンコは側溝を流れていった。排水口は細長い数本の開口が並んだもので、ウンコは到底その中へと落ちていくことは出来ない。茶色い存在は波のまにまに浮き上がっては回転した。それを遠目にじっと見ながら私は飴玉を連想していた。波に洗われるうちあれもだんだん減っていき、最後にはなくなってしまうのだろうと想像した。そしたらえづいた。
 今思えば、子供の、それも赤ちゃんのそれである。かわいいものではないか。しかし当時は私も子供。ただただ悍ましかった。

 私は風呂が大好きである。学生の頃はよく友達と近くの銭湯へ入りに行ったものだ。薬湯や露天風呂、壺湯にジェット風呂など色々な湯があった。勿体ないからと長風呂をして、あがる頃には真っ赤になってクラクラした。真っ裸のまま首を振る扇風機の前に立ち、簀子に足裏をぺたぺた鳴らして、右に左にをひたすら繰り返した。コーヒー牛乳は定番だが、私はいつもみかん水かジョアだった。そして一丁前に「疲れたあ」などとうめきつつ、マッサージチェアに座って小銭を投入するのである。背中をぐりぐりされて、痛い痛い、と嬉しそうに喚くのだった。
 このような昔ながらの銭湯が減ってしまった。近所にも一つ残っていたがこのほど潰れてしまった。それを寂しいものだと思いつつも、スーパー銭湯の大浴場に浸かって「ああああ、極楽やあ」と薄情にも唸っている。
 好きなら好きで温泉へでも出かけりゃいいものを、なかなか行かないところが我ながら貧乏ったらしい。
 
 と、一から十まで風呂を満喫しているように見えるが、そうではない。ここでも『濡れた床』問題に直面する。
 とある地方へ出張した際に泊まった旅館のこと、床のみならず壁から浴槽までがびっしり総タイルがだったことがある。しかも四角よりもたちの悪い小ぶりの丸タイルで、これには本当に参った。
 こういったわけでプールや風呂といった濡れた共同設備に対してもタイルがつなぎとなって生理的嫌悪感が生じてしまう。ちょっとこれは……という場所ではささやかな緩和策として、つま先立ちで歩くようにしている。

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