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適材適所

 昔々、当時入社した会社の新人だった頃、長野県に出張に行くぞ、と連れて行かれた。安物のチンピラのような細身でガラの悪い部長と二人、大阪から車で長時間掛けて向かうのである。車中にはミスチルが流れ、部長は「ええわあ、歌詞がええわあ」としきりに唸っている。助手席で僕は相槌を打っていた。松本に着いたのは二十時頃だったか。美味い蕎麦屋があるとチンピラが言うので腹を鳴らしてついて行く。確かに美味かった。そこで僕ははじめてビールをガッツリとジョッキで飲んだ。二杯飲んだのだが、気持ち悪くも良くもならない。なかなか飲めるのかも、と思ったのを覚えている。その日は早々にビジネスホテルに引っ込んで爆睡した。

 翌日、鉄塔に登ると言われて血の気が引いた。高い所は滅法苦手なのである。あんな高度は人間という生命体が通常居る場所ではないのだ。それをトチ狂ってひょいひょいとよじ登るというのは生命の順当に逆らうことである。高所を恐れる感情は至極当然であり、自らの生命を守るうえで、ひいては人類の生存のうえで理にかなった優れた反応なのである。この恐怖が身の内から沸き立つからこそ、なのである。ここに一役買っているのが想像力というやつだ。私のように比類なき想像力の持ち主の場合、高所の恐怖心は甚だしい。そのような僕に、それも初々しい当時の僕に、忌々しい骨組み露骨な鉄塔に登れという。やはりチンピラである。鉄塔の上の中間地点にケーブルが来ているようで、それにハンダ付けをするのだそうだ。僕は貧弱な腰に安全帯を二つ付けて、たどたどしく登りはじめた。身長を超えたあたりから、手の感覚に違和感を覚えた。自分の手であるが他人の手のように信用出来ないのである。感覚的に触覚も半減し、力も入らない感じがした。それでも登らねばなるまい。すると目の前の鉄骨に真っ黒のカラスが止まったのである。僕は動けなくなった。カラスの目をみるとチロチロと閃くようなまばたきをしていた。悪魔の使いである。僕を殺しに来たのであろう。しかし気をしっかり持たなければならない。そう思った途端に、アー! と鳴きやがった。僕がビクつくと奴もビクつき飛んで行ったので、奴の計画は頓挫したと言っていいだろう。しばらく、上にも下にも動けずにいたが、中間地点まで登ることができた。先に上がっていた酢蛸みたいなオヤジがいて、最後は引き上げてくれたのだった。よう上がってこれたな! と言って喉を奇妙にヒュンヒュン鳴らして笑っている。僕も愛想で笑ったが僕の喉はヒュンヒュン鳴らなかった。僕は安堵からへたり込み、後ろ手をついて上体を仰向けた。すると、鋭く冷たい感覚が小指に走った。その次の一瞬で激しい熱さ、それから激痛である。僕が手をついた場所に巨大なハンダゴテが灼熱の状態で転がっていたのだ。この先端に僕の小指が触れたのだった。見ると小指の側面が真っ白に変色し、ロースに火を入れたような色味であり、肉として焼けたわけである。踏んだり蹴ったりだと消沈していた。

 なんとかこの日の仕事を終えると、夜は他の職人さんも多数集まってご飯ということに相成りました。すると食事中というのに、おっさんどもがら猥談を繰り広げる。間違いなく自分のいるべき場所ではない。僕のいるべき場所は地上にあって周囲には猥雑でない紳士が集い、食事の合間で紙ナプキンで口元をトントンと拭うような世界が似合っているようである。

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