欲望とキャッチコピー / エッセイ
キャッチコピーで芯を食っていると思うものがある。
『食べたくなるなるケンタッキー』
がそれである。
定期的に無性に食べたくなるなるのだ。しかし残念なことに自宅の近くケンタッキーがない。だから無性にあの揚げ鶏にむしゃぶりつきたくとも叶わない。遠く足を延ばさねばならない。
世の中には鶏を揚げたものが冷めて温め直さなければならないほどに溢れかえっている。唐揚げ専門のお店は近隣に数軒あるし、スーパーにいけば数種類の唐揚げが惣菜として売られているし、コンビニにまでホカホカとある始末。人間が無類の唐揚げ好きなのだとわかる。これほどまでに横溢しているにもかかわらず、それらが無性に食べたくなるということはない。しかしケンタッキーは周期的に渇望期がやってくる。これは一体何なのだ?
他にもある。関西圏以外の方は馴染みがないかもしれないが、『551蓬莱』の豚まんがそれである。自宅の最寄りの駅構内に店舗があったので、帰りがけによく買っては家で食らいついていた。しかしそのお店はある日忽然と姿を消し、ここに中毒状態にされたオッサンがただ残されたのである。以来、禁断症状に悩まされている。
まだまだある。『餃子の王将』は外せない。書いていて堪らなくなってきた。王将は近場にまだ残存している。胃袋が王将を求めはじめると意識の主人である私は意志を胃袋に引き渡し、私は他の臓物と等しくなる。ようやく料理にありつくと細身のくせにペロリと平らげ、はち切れそうな腹を揺すりながら帰ってくる。王将で満腹になったあとはやけに眠くなってまるであどけない赤子だ。口のまわりにタレまでつけて。
このようなタチの食べ物はそうは多くない。そのどれもがアッサリしておらず、オイリーでジャンキーな傾向がある。常日頃、行儀よくお上品に暮らしている私である。そこに抑圧されたものが定期的に渦を巻いて噴出した結果がこの食欲なのかも知れない。今日あたり、噴出しそうである。
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