ケチんぼ / エッセイ
人生ではじめての身につけた真面目な腕時計はセイコーのものだった。細身の腕に大振りで、まるで似合っていなかった。それでも妙に愛着があって、その腕時計はもう手元にないけれど、今でもデザインの細部まで思い出すことができる。時計とは不思議なアイテムである。時間を確認するための道具が資産的な価値を得ている。購入した時の価格よりも相場が上がっている時に売ってしまえば差額が儲けとなる。下がらなければトントン。そうして売っぱらったお金で次の時計を購入する。この下取りの金額が大きいために、うまくやれば買い替えにはほとんど金がかからず、タダも同然ということがある。
友人は会社を経営しており、下世話に言えば金持ちである。私は金に執着はない。金より大切なものを胸に秘めているから別に金はいらない。それを証明するためには一度金のある生活をしてみてこれを否定する必要がある。ゆえに私は金がほしい。その金を持っているこの友人が時計を買ったのだという。ほほう、どれどれと見せてもらうと、一目で高級品だとわかる代物である。時間を確認するという機能は二の次のような時計で、それはそれは見事だった。どのぐらいするものなのだろうか。これで本が何冊買えるのだろうか、と自分が貧乏ったらしい発想をしていることに気づいて惨めになった。一体いくらする時計なんだ。私の家の時計で見る朝の六時はとてつもなく眠いが、こいつで見る六時はさぞ目覚めがよいだろう。値段が気になって仕方がない私は上品にこう尋ねた。
「それナンボしたん?」
高価過ぎる返答に私は一瞬ひるんだが、そこは生来のペテンで持ちこたえた。しかし、驚いたことに他にもあると彼が言う。そしてそれを売りたいのだそうだが、そうするべきか迷っているらしい。購入価格の1.5倍程度で売れると踏んでいたものが、詳しく調べてみると1.2倍程度ということがわかって迷っているとのことであった。どうするのがいいと思うか、と私は尋ねられたので、私見を言ってやった。
「俺なら売るな。うん、売る。すぐ売る。1倍でも売るわ」
すると彼は、いやあ、1倍はないわ、などと怪訝な顔で私を見ていた。その表情には、こいつガメツイな、と明朝体で縦に書かれていた。
しかし、どうなのだ? よくよく考えてほしい。私は今の条件である1.2倍でも売ると答えた。彼は1.5倍でなら迷わずに売っていただろう。そんな彼は私の意見を聞いてガメツイと思っている。けれど、私は1.2倍という少ない利鞘で満足だと言っているではないか。しかし彼は1.5倍の利鞘がほしいと言っているのであろう。彼は多くを欲しがっている。ガメツイのはどちらなのだ。
彼は結局、売らないことにしたらしい。ケチな野郎である。私なら即刻売っていただろう。たとえ百円でも確実に得て、金など要らぬということを証明しなくてはならないのだ。
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