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頭髪の秋 / エッセイ

 幼時は剛毛だった。頭の形がでるほどのサラサラヘアーに憧れ、キューティクルという言葉を知り、天使の輪に魅了されては、頭部のスチールウールを掻きむしった。

 あの頃が懐かしい。なんと恵まれた頭髪であったことだろう。あれほどまでに生命力に漲っていた。もはやタワシである。もはや枝である。四方に我ありと伸び、空間をゆずらなかったあの髪。今はいずこへ。

 というと大袈裟ではあるが、へなへなと勢いがなくなったのは確かも確かである。時の流れは残酷で、馴染んだものが変化する。気づいた時にはもう遅く、指にすいては風もすく。ああ懐かしや懐かしや、である。どうしようもない。

 といって、無いことはない。周囲はまさかにも私の髪がすいているとは思っていない。しかし、当の私は知っている。そこが余地である。男の余地であり、私の余地である。余ったものは無題だと削減される時代である。それなのに、その有効活用は宙に浮き、結局空き地が残る。この差異は何なのか。アパートでも建てにこい。

 共感する男は多いはず。むしろ行くところまで行った者も多いだろう。そんなものを横目に見ながら焦点だけはこらし、嘲笑いながらもびびっている。びびりながら契っている。ああ、私の友よと。現金なものだ。なんだなんだ、髪など。頭部に生えた繊維質ではないか。それに人類は重きを置きすぎなのだ。これは原始に根差した習性に違いない。大脳新皮質が発達した人類が未だに頭部の繊維を大事にしている。それはどうなのか。動物性の枷ではないか。ああ、髪よ。それでもあの頃の、あの頃の髪がほしい。私も枷に縛られている。両足を見れば、人より倍の枷がある。

 髪はバロメータ。ここまで私は来たのだ。歩いてきた。その証である。何も残せてはいないが、ここまで生きた証である。それは今、秋である。季節は平等に、頭髪にも秋がきたのだ。私は今、バーで酔いながらスマホでこれを打っている。その様も秋らしい。春というのに。桜が咲くというのに。

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