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マーフィーの法則を解体

 小学生の頃、図書館の飴色をした本棚に『マーフィーの法則』と背表紙に書かれた本が他の本と整然と並んでいた。パラパラとめくって読んだ。なんだおふざけの法則か、と半分面白がったが、歳なりの笑えない経験も増えてくると、あながちおふざけともいえない皮肉さに改まってくる。とはいえ法則とされた種々の傾向に客観的な偏重があるとは思えず、あるように感じてもそれは錯覚であり、所詮はマーフィーの法則の正体は認知バイアスなのだろう。つまりツイてない側へ、我々も出来事も運命もが結構な確率で傾ぐのである。

 不条理は倒れゆく先の地に大口で構えている。灰色を溶いた水色の不条理。まさかいくら何でも、なんて嘆息するのは悠長というもの。不条理はこのあと、二の矢三の矢を悄然とした脳天に降らす。悪いことは重なって起き、そしてまさにそれが起きる時、圧を失った血が総身からサーッと落ち、痺れと結託して広がる圧倒的な冷えをうなじに感じるだろう。この救われぬ不条理、カフカも大喜びである。

 人類はあらゆる事象に抗ってきた。これほど抗って遡上しようという精神は鮭ゆずり。しかしその不屈の胆力をもってしても、やはり不条理を軽くいなしてほくそ笑むほどには賢くない。やる気はあっても報われない背中をしている。しかしわたしはそんな猫背を愛おしく思う。

 マーフィーの法則にこのようなものがある(と言っても、悪いことは起こる余地があれば起こる、という法則なだけに、それがあらわれる事象はさまざま無限である)。隣で煙草を吸われると、必ず自分の方へ流れてくる、というもの。これの応用で、ハンダ付けをしていたら、ヤニ入りの煙は自分の顔面に流れてくる、というのをわたしは経験した。しかしである。流れてこない場合も経験しているはずである。しているにも関わらず、流れてこなかった! よかった! 嬉しい! なんだこの喜びは、、、そうだ、ハンダの煙が流れてこなかったんだ!(以下繰り返し)とはならない。ならないから印象もシミほどにも残らない。他方、煙が流れてくると、それとの邂逅に、瞬間的に不快が爆発する。その嫌悪まじりの鋭さが藁半紙を傷つける如くわたしの記憶をえぐる。これが広漠たるわたしの無垢な経験と記憶の海原のブイとなり、そのブイが同様の出来事にて増えてゆくのである。すると、嫌なことはたいがいの場合よく起こるもの、と庶民の口内炎の常駐する口々に噂され、それが自然束ねられ、マーフィーの法則と相成るのである。

 何よりマーフィーとは誰なのか。わたしの世代では、『星の王子 ニューヨークへ行く』のエディ・マーフィーが連想され、共連れて響くのは「ナンデなんだオマエ」「うっせぇなコノヤロ」と吹き替えの下條アトム氏の軽快な声である。この台詞だったかは覚えていないが、このような台詞である。何を言うかも重要であるが、それを言うトーンも重要なのだ。しかしマーフィーの法則がエディ・マーフィーの訳がない。一体誰なのだろう。調べていないし、調べる気もないから分からない。何より疲れてギリギリ現世にとどまってベッドに横になり、乾いた口をパクつかせながら、発したはずのない不意にでた声に驚きもしないまま「ああ、マーフィー」と何の因果か浮かんだそれを、自動筆記的に打っているに過ぎないのだから。

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