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足の指 / エッセイ

 部屋で電話をしながら足の親指を見ていると、「なんや、これ」と思った。所謂、ゲシュタルト崩壊である。その指の腹は手の親指より一回り大きい。その一回りがやけに大きいのである。こんなに大きかったっけと思いながら眺めていると、ゲシュタルト崩壊はその様相を極め、いよいよ我が身体の一部が不可解に思えてきた。不恰好に丸い肉塊。つまむとふにゃふにゃと赤くなったり白くなったりと気ままである。口もなけりゃ目も鼻もないのに、なんとなく憮然としている此奴。生まれてこの方、こんなものが足先に、それも左右に一つずつ付いていたのかと思うと、俄に信じがたい。ふと反対側をみると小指である。斜に構えたこいつはこいつでまたケッタイで、親指に負けていない個性を発揮している。やけに小さすぎやしないか。大豆ほどしかないではないか。なるほど、小指というのももっともである。そうなると、この二本に挟まれた間の三本が私は不憫でならない。まるで個性がないではないか。しかも似たり寄ったりの形状をしている。手における親指の隣の指は人差し指というが、では足の親指の隣の指は何というのだろう。中指や薬指はまあいいとして、足の親指の隣の指は人差し指と呼んでよいのかどうか。人をこの指で差すことはまずもってない。その意味で既に破綻している指である。そう思うと、こやつは逆に個性かも知れない。破綻しているというところに妙な親近感が湧くではないか。そして、ふとまた親指に視線をうつすと、未だゲシュタルト崩壊したままである。次第にマムシの頭のようにも思えてくる始末。崩壊していても身体の一部である以上仕方がない。理解を超えて我が一部なのである。私は毎日意識的に足の親指を見ることに決めた。いつの日にか、「ああ、誰かと思たら親指かいな」と存在が腹落ちする日がくることを信じて。

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