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古書を一冊 / 雑記

 先日、大阪の心斎橋の界隈をぶらぶらしていると小ぶりで感じのいい古本屋を見つけた。空間は清潔に整然としており、二十代ほどの男女が丹念に本棚に並ぶ背表紙を楽しんでいる。古本屋には思いがけない本との出会いがある。目線の頭一つ上あたりに僕は見つけた。宇野千代である。題名は『人形師天狗屋久吉』、徳島県は阿波人形浄瑠璃が有名だが、宇野千代がその人形師にインタビューを行い、それを一人称で語るという聞書きを行った作品である。この古さが堪らんです。

『人形師天狗屋久吉』表紙 宇野千代著
『人形師天狗屋久吉』中身 宇野千代著

 僕は宇野千代の『色ざんげ』が好きで、ここに高尾という女性が出てくるのだが、この女性、実際に身近にいたなら参ってしまうだろうけれど、僕はどこかこのような気ままで奔放な女性に悲しげな横顔を見てしまう。それは三島由紀夫の『夏子の冒険』の夏子にもそうである。しかし思えば、高尾や夏子がはじめではない。初代はドストエフスキーの『白痴』に見るナスターシャ・フィリポヴナで、読後これにはそうとうに打ちのめされてしまった。長編の読了の寂しさと相まって、ナスターシャという女性が持つ不器用までの悲しさについて考えざるを得なかった。僕はナスターシャ・フィリポヴナがただの身勝手な女性だとは思えない。と、後半は『白痴』の話になってしまったが、宇野千代の『人形師天狗屋久吉』を読むのが楽しみでならんっちゅう話。

参考に冒頭をば。

去年の春、私はある人のところで、はじめて、その人の作つたといふ人形を見た。『阿波の鳴門』のお弓で、鄙びた手織縞の着物など着せてあるのに、その面ざしの深い愁ひが、人の心に迫るやうに思はれた。「かうして動かすのですよ、」とさう言って、そこのおくさんは、人形の帯の下に手を入れて動かしてお見せになつたが、女の人形の顔は、ただ眼が開いたり閉ぢたりするだけなのだけれど、どうかしたはずみに、その眼が閉ぢたままで動かなくなつたのである。あ、と私はそんな聲を立てた。その開かうとしない眼が、生きてゐる人の眼ざしなど遠く及ばないやうな、言ひやうのない深い氣持ちを感じさせたからである。

『人形師天狗屋久吉』宇野千代著

どうです。
面白そうだとは思いませんか?

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