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今週見たもの

フィルメックスで山本英『熱のあとに』を観ながら、今週見たものについて何かを書こうと思ったけれど、いざ、ノートパソコンを開くと、何をどこから書けばいいのか、わからなくなった。

文体がなければ何も書けない。ツイッターの140字くらいならなんとかなるけど。もしかして文体がなければ読むこともできないのではないか。村上春樹を読んでるときの、物語とは全然関係ない部分の、あんまり興味も持てない部分の、面白さ、みたいなもの。文体?いや、よくわからないけど、とりあえず、なんか書こうと思います。とにかく、忘れちゃいそうだから。

映画を観ていたとき、いろいろ考えることがあるけれど。これは、映像、と音であって、山本英監督の映画は、そのどっちもがいいので。この映画はもう一回見ようと思った。たとえばそのときに頭をよぎったことというのは、映画に関係があるようで、関係がないことだと言い切ってしまいたい。

村上春樹っぽさ、とは何か。おとといくらいから『羊をめぐる冒険』を読み始めたところだけど、読みながら、週末に観た関田育子の『雁渡』という演劇のことを。やっぱりあれは、映画的だったな、などと。映画は映像で見せられるから、台詞は演劇より少ない。いわゆる「説明ゼリフ」というやつが。村上春樹の長編小説の書き方は、章ごとにけっこう短く断絶されて分かれていて、時系列も行ったり来たりする。場合によっては、物語や世界線も分かれる。ふつうの小説だと、章で区切られていてもたいてい時系列で、そのあいだにどんなことがあって、何年後とか、何ヶ月後とか、みたいな感じになってる。でも村上春樹の小説では、ぶつっ、ぶつっ、と、映画でシーンがとつぜん切り替わるみたいに、時間と場所が飛んでる。また、その経過に関する導入的な説明もない。何か別の考え事や回想から入って、そのまましれっとその考え事をしていたある時間と場所をもつあるシーンの情景に戻ってくる。読み進めていくにつれ、その情景や、回想が積み重なっていって、それなりに厚みをもった、ある一人の人間の、ある一人の世界観のようなものが立ち上がってしまう。これがモンタージュというものか。これが文体というものか。これがリズムというものか。まあ、名称はなんでもいいが、そういうものがある。

これを関田育子の演劇にも感じたのだ。俳優がのそのそと舞台上に現れて、真顔でゆっくり台詞を喋る。物語を説明するような台詞ではなく、ある場面の、ある瞬間の、ある印象的な台詞、ある印象的な動きを、ゆっくり、分解して、再生するように喋る。ただ1行の台詞と、腕の一振りから、そのシーンのイメージが、自然と浮かんでくる。それが一つ一つのショット、とも呼べる明確さによって、配置され、積み重なっていくことで、ある人間、ある世界観のようなものが立ち上がっていく。

映画はそもそも、モンタージュだ。説明的な映画というのも、昨今多かれど、やっぱり、映像と台詞、編集というものがモンタージュという感覚をもたらした。『熱のあとに』でいえば、ファーストシーンの、外階段、足音、血のついた壁、床に落ちたナイフ、煙草を咥える、火災報知器の音、スプリンクラー、水に濡れる肩、笑い声と揺れる肩。呆然とした横顔、オマール海老を剥く、幸せな生活と自然死。運転席、助手席、愛した人を刺したことがあるんですよ、トンネルを抜ける、タイトルバック。というような。印象的な画と、印象的な音、印象的な台詞のモンタージュ。

まあそこらへんの、モンタージュっていうところの、やつ。これをけっこうそのままやっちゃってるのが関田育子の演劇なんじゃないのか、っていう。ああ、けっこうそのまんまできるんだ演劇でも、て思った。山本英の映画は面白かった。重めの題材だけれど、やっぱりシーンのどこかには気づかれないくらいの遊び心とかもあって、シナリオもかなり真剣な感じで。恋愛。みたいなこと。まじで、真剣に、話せるか?大丈夫か?っていうところ……

濱口竜介『GIFT』は、なんとサイレント映画だった…(石橋英子さんの生演奏付きの)! 「西村花子。8歳。〜〜」みたいな字幕で、それぞれの登場人物の説明が出たり、舞台となる「長野県水挽町」の説明が出たり、小屋の前で、薪割りをする「西村巧」が、薪を拾って小屋に運んで行って、一服して、戻ってくる長いショット。木々の間を歩いていく親子が、鹿の足跡を見つけて、水飲み場に辿り着く。やがて東京からグランピング施設を開発する企業の二人がやってきて説明会を開く。その説明会で意見が対立する、みたいな話で。前半の方はなんだかイオセリアーニのグルジア時代の映画(『四月』とか『落葉』とか)を観ている感じで面白かった。説明会の対立のシーンがすごく良かった。これはかなりモンタージュ的にいうと贅沢な映画だった。でも後半はちょっと急展開すぎてよくわからなかった。

『GIFT』も『熱のあとに』も長野県で撮っていた。今朝TVerで見たNHKの『ドキュメント20min. ニッポンおもひで探訪 ~北信濃 神々が集う里で~』という番組も、1972年に住民がいなくなった長野県の集落に関するドキュメンタリー番組だった。このあいだ観た水曜日のダウンタウンの『犯人を見つけるまでミステリードラマの世界から抜け出せないドッキリ、めちゃしんどい説 第2弾』も長野県だった。たんなる偶然ではあるが。

たとえば『GIFT』がグルジア時代のイオセリアーニ映画に似ていたことを踏まえて、東京—長野(地方)の関係を、パリ—グルジアの関係に置き換えてみることはできないか。イオセリアーニの映画に漂うどこか日本との親近感のようなものを、その構図で何か説明することができそうだ。

『ドキュメント20min. ニッポンおもひで探訪』は、ドキュメンタリーの作為性を開示しながら、フィクション(演じること)のドキュメント性を面白がるというリテラシーを地上波に乗せるという意味合いにおいては画期的といえる番組だった。失われた集落の物語を郷愁や社会問題などの諸軸によってリニアーに編集するのではなく、あえて一度ハッタリをかますことによって、訴求力を強める。これもまたモンタージュの一種だろう。

水曜日のダウンタウンのミステリードラマドッキリは、Netflixのドラマを一気みしてしまうような感覚で、前編後編を続けざまに見てしまった。ミステリーという強固な型が存在する物語の中に丸腰の人間が紛れこみ、周りの登場人物は決められた台詞しか喋れないアドリブの利かない人間であっても、決められたアクセスポイントをクリアーしていけばしっかりミステリードラマが展開していく。ドッキリを拒絶し、茶番的なやり取りに駄々をこねるやる気のないダイアン津田も、むしろそういうキャラとして主人公の探偵という役割を演じているように見えてくるのも不思議だ。いや、むしろ定番の型を安牌になぞりながら下心でちょっとした新規性を入れ込んでいるそこらへんのドラマよりよっぽど面白い。TV番組のロケで長野県のある村を訪れ、そのときちょうど起こった殺人事件の解決を依頼された”名探偵津田”は、番組スタッフが仕掛けた巧妙な謎解きシナリオに本気で混乱し、頭を抱えながらこう言う。「俺は…どこの人? 俺はどの世界で生きてんの今…?」

つまり、物語の登場人物というものは、その役割(機能)が明確であればあるほど、そこに「演技力」というものは必要とされない。むしろ、その人間としての一貫性が保たれていればよいだけなので、下手に演技をするよりも、単純な人間をそのまま放り込んだ方が、反応が真に迫って情動が揺さぶられる。

またここで濱口竜介に戻るが、濱口は棒読み状態で本読みを繰り返す独自の演出方法でも知られる。そして彼はプロの俳優ではない人間を積極的に映画の出演者として起用する。実際、濱口の劇映画の傑作『ハッピーアワー』や『親密さ』、大学時代の『何食わぬ顔』はプロではない俳優や素人、濱口の友人などによって演じられた映画で、それがむしろ、プロの俳優が演じた『寝ても覚めても』や『ドライブ・マイ・カー』などより圧倒的に面白い。これもまた、同じ理由で説明がつく。濱口竜介を他の同世代の監督たちから抜きん立たせるのは、一つに圧倒的な脚本家としての才能がある。それは気の利いた台詞を書けるとか、あっと驚く伏線回収を考えつくとか小手先のテクニックというよりも、ある人間関係の中で「役割」というものが発生するメカニズムそのものを捉え、その瞬間を克明にシナリオに刻み込むという技術だ。つまり濱口の書いた脚本の中にある人間が「役」を与えられて演じるという出来事が書きこまれているので、わざわざプロの俳優が独自の解釈を盛り込んで「役作り」をする必要がないのだ。台詞は棒読みで十分であり、その棒読みからどうしても溢れてしまう声の震えや目線の揺れ等にこそ、映画にとって真に迫る瞬間が宿る。

そろそろ寝ようと思うので今日はここらへんまでに。まとめると今週は「映像のリテラシー」関連のこと、あと長野県、という話題でした。毎年思っているのだと思うが、冬、思ってたより寒い。

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