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エッセイ | 恩を忘れること・謝罪について

 人間関係をつくるものは、恩という意識ではないか、と最近考えている。
 恩というと、決して悪いイメージのある言葉ではないが、ときに悪魔のような役割を帯びる。恩の裏には、多かれ少なかれ利己心がつきまとっているからだ。

 「あなたが苦しかったとき、私はあなたに寄り添ったではありませんか?」と何年か前のことを言ったって、相手にとってはもう過ぎ去ったことで何とも思っていないかもしれない。覚えていたとしても、相手はあなたにもう既に恩を返したと思っているかもしれない。

 話を聞いてくれない相手に対して、自分が過去におこなった善行を語っても、相手にとっては恩着せがましく聞こえるだけだ。


 何か恩という名の贈り物を受けとると、すぐに恩に報いたいと考える。それは、意識の中に損得勘定が潜んでいるからだ。

 プレゼントを受けとると、すぐに何か返礼品を贈りたいという気持ちになる。それはプレゼントを受け取って何も返さないでいると、相手に対して負債を負っているような感覚になるからである。
 返礼品を相手に贈った途端に、恩返しが終わり、チャラになったと思い込みたいからだ。

 こういう恩というものによって結ばれる損得勘定がいやで、最初から相手の恩を拒もうとする人もいる。それも1つの考え方だが、なかなかむげに相手の恩を拒否することは難しい。しぶしぶ相手の恩を受けとる、という人も多いだろう。そして、しぶしぶ受け取らざるを得ない恩というものが、嫌悪感を生み出す。


 私があなたに与えた恩を、あなたが忘れたかのように振る舞っていると、私はあなたを攻撃することになるかもしれない。

 「こんだけのことをやってあげた私に対して、お前はまったく恩を感じていないのか?」とののしる。そして、怒りの炎はメラメラと燃え上がり、相手の忘恩以上の仕打ちを相手に加えてしまう。

 端で見ている第三者は、私のやり過ぎを非難する。「あんた、今のはやり過ぎですよ」と。

 反省した私は我にかえる。良心を取り戻した私は、相手に謝罪したいと願う。出来ることなら、今すぐに心から謝罪したいと願う。

 しかし、大怪我を負った相手は、私の謝罪なんて欲していない。私を殺そうとまで憎んでいるのかどうかは知らないが、少なくとも、今殴ったばかりの私の顔など見たくないだろう。
 謝罪したいのに、私の謝罪を相手に拒否されると、「何で私が謝ろうとしているのに、お前は聞こうとしないのか!」とまた一段上の怒りを生み出す。

 殴り合いの喧嘩があったとき、相手も傷ついているが、殴った私も傷ついている。お互いに流血している中で、理性的な話など出来るわけがない。

 そういうときは、無力感をもつものだが、何もしないで、ただ、お互いの傷が癒えていくのを待つしかない。

 一度起こってしまった出来事には、終わりなんてない。「忘れろ!」とは言わない。すぐに謝ろうとするのは、自分の犯した過ちを早く忘れたいからに過ぎない。

 時がすべての傷を癒す。


 哲学的でも何でもないのですが、今は恩というものについて、こんなふうに考えています。

◎自分が相手に与えた恩は、その場で忘れる。
◎相手から受けた恩は忘れない。しかし、卑屈になる必要はない。
◎自分が恩を与えた人から、恩を返されることを期待しない。
◎相手から受けた恩は、相手に返してもいいが、別の人に与えてもよい。
◎恩の損得勘定を考えない。

https://note.com/piccolotakamura/n/nb0aadb5ecd20


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