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エッセイ | 記事を書くときのバランス感覚

(1)
 1ヶ月くらい前だったか、ずっと保存してきた下書きを全て廃棄してみた。下書きだから、完成した記事ではないが、あと少し書き足せば、一つの記事にすることができそうなものも一旦消去してみた。

 下書き記事は生鮮食料品ではないが、「鮮度」というものがありそうな気がして。

(2)
 ふだん記事を書くとき、投稿の直前(ホントに書き立ての場合もあるし、1日前に書いておく場合もある)にひらめいたものを投稿したほうが「ウケ」がいい。「ウケ」と言っても単なる数字ではなく、手応えというか、皮膚感覚的なものなのだが、読者の反応がいいと感じる瞬間がある。

 逆に、文献を調べて、引用にも気をつけて、神経を使って書いた記事は、労力のわりに、あまり反応がよくなかったりする。
 端的に言えば、思い付きで書いたエッセイや小説のほうが、「論文」的な文章より読まれやすいということだろう。

(3)
 それでは、読者の「ウケ」が良いものをたくさん書けば、手応えをよりたくさん感じていられるかというと、そうでもない。
 「エッセイ」や「小説」のような文章は、なかなかコンスタントに毎日トピックが思い浮かばないこともある。また、いつも思い付きばかり書いていると、新たな読者を獲得できない。
 あまり深く考えているわけではないが、「エッセイ」や「小説」の投稿がつづいたら、「数学」や「英語」の記事を書いてみたり、他のクリエイターの記事を紹介してみたり、イラストを描いてみたりしている。写真だけの投稿もある。

(4)
 投稿する記事は、写真であろうが、短歌・俳句のような短い文章でも、何千字を超える長文でも何でもいい。しかし、自分で書いていて飽きてきたら、読む方はもっと飽きてくるだろう。

(5)
 私がnoteを始めた当初は、英語をはじめとする「語学note」にしたいと考えていた。「語学が好きな人」とつながりたい。しかし、1ヶ月もしないうちに、語学ばかりの記事を書いていても、なかなか記事を読んでもらえないということに気がついた。自分の本当に読んでもらいたい語学の記事を読んでもらうためには、記事を読んでくれる人の「パイ」を大きくしないとダメだと。
 そこで、人気のある「俳句」や「短歌」のような記事を書くようになったが、私のような素人が作った「俳句・短歌」を載せていては「差別化」はできない。だから、自作の「俳句・短歌」に「英訳」をつけて投稿したことも多い。
 自分の書きたい内容の記事と、読まれやすい「俳句・短歌」をブレンドするという「苦肉の策」だったわけだが、今では「レパートリー」の一つになっている。

(6)
 まだ暗中模索の部分は多い。しかし、やはり「初心」を忘れたくはない。「語学」を基軸にしたいという気持ちは捨てず、読者が何を読みたいのかということへの気配りを忘れずに両立できたらな、と思っている。

(7)
 いまnoteをはじめて1年と3ヶ月が過ぎた。毎日書いていると、「レパートリー」が増えてきた。「語学」という基軸を忘れた記事も多いが、私の「レパートリー」には次のようなものがある。

・ИНК教養講座

タモリさんの「長洲産業大学教授」の真似事。

・あいうえお短歌

・日本語で書かれた5-7-5-7-7「短歌」を、英単語の5-7-5の「俳句」へ翻訳すること。

・「形」に着眼した英文法

・身の回りの数学。あるいは教科書とは違う説明をすること。

・仲良しフォロワー(片思いかもしれないが)さんのパクり😄。

・読書感想文あるいは単なる本の紹介。

・「対訳」エッセイ。日本語で書いたものを英語にしたり、その逆もある。両方載せることもある。

こういう「レパートリー」という型ができてきたのだが、我ながらパターン化しすぎているような気がして、「下書き」をいったん消去してみた。だから、今朝の記事に書いた通り、1つの記事を書くのに四苦八苦したのだが、しばらくの間、下書きを保存せず、「自転車操業」的に記事を書いて「新しい型」を見つけたいと思う。
 「型」を身につけること→「型」を破ること→新しい「型」を見つけること→新しい「型」に、はめること→新しい「型」を破ること。。。その繰り返し。

PS
ヘッダーの写真は久し振りに「朝焼け」にしました😄。


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