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黄色い猿の首(1) 【小説】

 十六歳の夏。最初に入れられたのは、女性病棟の個室だった。関東の郊外の、都会ではないけれど完全に田舎とも言いがたい微妙な都市の一角に建つこの精神病院の閉鎖病棟はコの字型をしていて、真ん中の共用スペースを境に男性用、女性用できっちり分けられていた。個室はそれぞれに一つずつしかなかった。そこに入った。

 個室の扉には強化ガラスの小窓がついていて、外側に掛けられたカーテンで遮られている。鍵もあるけれど病院スタッフの持つ鍵でしか開け締めできない。つまり外から物珍しげに見物に来る人たちの視線を、わたしは遮れない。十代くらいの女の患者がたくさんやってきた気配がした。何人かが勝手にカーテンを開けて、「え?めっちゃしんどそうじゃん」「どうしたのかな」なんて声が聞こえてきて辛かったので、死角に隠れて膝を抱えて座って、だいたい五センチくらいしか開かないように出来てる窓の隙間から外をぼんやり見上げていた。
 熱帯魚が、わずかに開いた窓からゆらゆらと空中で出たり入ったりしていた。やがて部屋中が水で満たされ始めて、顔を両膝の内側にうずめて息をひそめると、熱帯魚たちがそばまで寄って来てゆらゆらしだした。幼い頃からたまに見る、わたしの大切な幻覚。

 携帯を取り上げられた。突然の入院だったので音楽プレイヤーも持っていなかった。
 入院が必要と宣告されたあとに通されたのは、閉鎖病棟と外界の間に設けられた、両サイド鍵付き鉄扉の小部屋だった。ちょっと精神科に外来受診というつもりで提げてきた簡素なトートバッグの中身を看護師に物色され、あれもダメ、これもダメ、ごめんね規則なのよと、驚くほど色々なものが取り上げられた。財布、通学定期、櫛、鏡、ハサミ、眼鏡、それから着てきたパーカーの紐などなど。怠かったので一番どうでもいい外出の時に履くやつを選んだジーパンに、ベルトがついてないか確認された。あったらそれもダメだという。
 あちこち糸のほつれた汚いトートバッグに、ほぼ無くなりかけのBBクリームと綿棒、サイドポケットに突っ込んだまま捨て忘れていたメンタームのリップスティック、普段遣いの腕時計、日焼け止めとコンビニで買ったおにぎりのレシートを詰めた状態で、だからここに来た。手ぶらのほうがマシだった。どう見ても全部が全く役に立たない。一体ここに何日いるんだろう。

 どれくらい時間が経ったんだろう。少し落ち着いたので部屋の中に時計を探すと、無い事に気づいた。トートバックから腕時計を取り出して身につけ、文字盤を覗く。でも頭がぼんやりしてうまく読めない。
 恐る恐る鋼鉄の扉を開け、外に出る。女性病棟。廊下には誰もいない。大部屋が奥に五つくらいあるみたいだった。コの字型の真ん中の、デイルームと呼ばれる共用スペースに出ると、テレビを見ていた二十歳過ぎくらいかなというお姉さんが、「やっと出てきた」と目ざとく私を見つけ、笑いかけてきた。そのそばでパジャマのようなピンクの入院着を来た、小学生かなあと思う背のちっちゃなぼさぼさ髪の女の子が、しげしげと顔を覗いてくる。
 うっと胸が詰まって目を逸らした。わたしは近い年ごろの女の子が怖かった。
 中学生の時、クラスの女の子を好きになり、一方的に襲ったという理由で酷いいじめが始まって、それからは女性とは年配の優しそうな人や小さな子どもとしか話せない。なんとか受験して高校に進学するも、学校でほぼ誰とも話さない状態になり、やがて憂うつな状態が酷くなって、養護の若い女の先生(二十代のきれいな人、優しいけれどそれでもわたしには怖かった)の勧めでこの病院の外来にかかり始めて、まだ四回目の診察の日だった。それでいきなりここに入った。

「どうしたの。大丈夫」
 たぶん心配してくれているのだけど、近い年ごろの女の人を前にすると感情が混乱する私は、表情が凍りついて、虚無になる。四呼吸くらいの間のあと、
「大丈夫です、すみません」
と、機械仕掛けの口調で返事をした。

 と、目の前をふわりと、青白い亡霊が横切った。いや、天使かな。
 本当はどちらでもなく、私と同年代くらいにみえる女の子だった。すらっと背が高くて、異常にやせ細っていて、唇をぽかんと開けたまま西洋人形のような顔がかたまっていた。足首まで丈のある白のワンピースを着て、視線を少しだけ上に向け、上体がすごく前に出る歩き方をしていた。ひと目見て傷んでいた。私は会話が出来ません、と全身で言っていた。
 わたしは彼女が通り過ぎるまで、ぼんやり見とれた。

 例の、小学生くらいに見えるピンクの入院着の女の子が、ふいに、
「きれいですね」
と話しかけてきた。瞬間、眉をひそめてしまいそうなのをこらえて、わたしは目を見開いた。年下の女の子から差し向けられたささやかな親愛の籠もる言葉。それを、中学生のあいだじゅう、同年代の同性たちからいじめ抜かれてきたわたしの身体は、危険の兆候だと認識して「逃げろ」と声の無い声で叫び狂った。そうして息が苦しくなりながら、
「そう」
と返事をして、左下に目を落とした。それを見たその子は突然人懐っこい雰囲気を放ちだして、わたしに続けて話しかけてくる。
「わたし、桃(もも)。十四歳だよ」
 十四。驚いた。小学生だと思っていたのに、そんなに歳が変わらなかった。そうか、社会から切り離されたこの閉鎖空間にいる人は、実際より幼く見えるのか、と気づいた。私も暫く入っていればそのようにして馴染んでいくんだろう。
「私は、水仙(すいせん)。十六歳」
 名乗りながら、声が先細っていって、最後はお腹のなかの黒いものが声帯を揺らすのに失敗しながらどろんと吐き出されるようになってしまった。再度俯くけれど、桃ちゃんが甘い香りの視線をずっとわたしに注いでいるのを感じる。
 隣にいた二十歳過ぎくらいだと思っていた女の人が、
「あたしは岩田(いわた)さんだよう、三十三歳だよ。おばさんだねえ」
と笑った。そして、
「気にしなくていいよ。ここってそういうところだから」
と気遣ってくれた。彼女の声は、病いと疲れの感触を丁寧にかき分けると、ほんのり柔らかなものが籠もっていた。聞いていると、少しだけ落ち着いた。

 改めて、入院生活の説明などを聞けるのかと思って待っていたけど、何も起きなかった。他の患者と一緒に寛いでいてはいけない気がして、何もない個室に戻って待っていたのだけど、医師も看護師もやってこないまま日が暮れ始めた。
「夕食の準備が出来ましたのでデイルームまでお越し下さい」
 壊れかけの備え付けのスピーカーから声がしたので、出ていく。
「あっ、出てきた。何してたの」
 女性病棟の奥の大部屋から出てきた岩田さんが私を見つけて、声を掛けてきた。
「いっしょに食べよう。桃と幽子も一緒に」
 それから耳元に口を近づけて、
「ほらここ、色々な人がいるからさ、一緒に食べたほうが、ね」
 そう言われて、周りを観察すると、ここはティーンエイジャーの患者と同じくらい、五十や六十を過ぎた患者も多いことに気づいた。ここは若者と老人の多い病棟だった。ろくに洗われてないボサボサ髪を垂らした、弱った兎のような目のおばあさんや、腰を大きく曲げて、神経のピリついた目でのしのし歩く小柄なおばあさんなんかが続々とデイルームへ向かって歩いていた。デイルームで男性病棟側からやって来た男の患者たちも混ざると、あちら側にも神経がピリついて話しかけられそうもないような状態のお爺さんや、異様に上体が捻じ曲がった大きな男の子、朦朧としているけれどどこか女患者たちや若い男の子の患者たちをじっとりとした目で見つめるような中年のおじさんなどがいて、わたしは心細くなった。
 女の子と一緒にいるのは怖いけど、岩田さんと桃ちゃんのそばにならなんとか居られそうな気がしたので、とりあえず甘えることにした。お盆に乗った食事を受け取ると、岩田さんと桃ちゃんと、さっき横切った青白い女の子が四人分の席を確保しており、岩田さんが笑顔で手招きしていた。
 隣に岩田さん、向かいに桃ちゃん、対角線上に青白い女の子の並びで座ると、桃ちゃんが花が咲いたみたいに人懐っこく話しかけてくる。
「幽子ちゃん」
 三呼吸くらいの間のあと、「えっ」と聞き返す。
「幽子ちゃん」
 桃ちゃんは全く同じ台詞を、次は対角線上の女の子――あの青白い天使――を指さしながら言った。
「あ、どっ、どうも。わたし、水仙」
 声が先細って、お腹の中の黒いものがどろんと吐き出されてくるのを使って、最後の「水仙」を発音して、それから背中が冷や汗まみれになる。血の気が引いて、食事を食べる気力がなくなってくる。
 女神の亡霊のようにお盆を見つめる幽子ちゃんは、わたしが視線を向けても微動だにせず、顔も固まったままだったけど、確かにわたしを意識したのがわかった。一切背を曲げず、手のひらを両膝に添えて、きれいな長い黒髪を後ろで束ねた姿で、作り物のように固まってる。でも、意識がわたしを確かに捉えた。
 それを、岩田さんと桃ちゃんは気づいたのか、どうなのか、汁物の椀の蓋をあけると、お箸を取ってさっさと食べ始めた。わたしもお箸を取って、それから少し幽子ちゃんの方に視線を送ったあと、「いただきます」と呟いてごはんに手をつけた。幽子ちゃんも幽霊みたいに優雅に動いてご飯を食べ始めた。
 食事風景はとても静かだった。テレビは消され、ピリついたおばあさんやおじいさんも、じっとりした視線を放ち続ける中年のおじさんも、身体が捻じ曲がった大きな男の子も、周りの三人も、黙って、お箸とお椀を、かち、かち、といわせながら、食べた。

 そのまま夜になる。中年くらいの女性看護師を捕まえて、「パジャマが無いんですけど……」と訴えると、「ああ、親御さんに持ってきてもらいなね」と言って去っていった。それで、外への連絡手段があるのかと探してみたら、公衆電話が一台あった。でも小銭もテレホンカードも持っていないので、使えなかった。弁護士と相談するための連絡先が書いてあり、見た瞬間に右耳がつーんとした。
 壊れかけのスピーカーから就寝時間のお知らせを聞くと、ジーパンにシャツの姿のまま布団に入った。
 わたしの大切な幻の熱帯魚たちは消えていた。彼らを呼び戻そうと、夜だけど少ししか開かない窓を開けてみたが、程なく閉じた。

 初めての環境に落ち着かなかったけど、看護師がたまに懐中電灯をもって病棟内を巡回し、扉に備え付けられた小窓のカーテンを開けて患者の様子を確かめるらしいことに気づき、怒られない為にとりあえず寝ることにした。

 そうして入院一日目が終わった。

(続きます)

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