私のプロフィール その1

英日欧企業マッチングのさきです。今日は、
私のプロフィール その1 をご紹介します。

              
1. 誕生から6歳まで

私は、雪のちらつく 肌寒い3月3日
ひな祭りの日の 0時3分に、
新潟県新潟市の病院で、
産声をあげました。

なぜこんなに詳細に時刻を
覚えているかというと、
父が、私の誕生日は、

“3”という数字が3回続く 
(3月3日 0時3分) から、
縁起がよいと言っていたからです。

それに、なぜか、
地元の地方新聞である“新潟日報”に
“やよいの空に…”とかという見出しで、

生後数日の私と数人の
新生児の写真が掲載されました。

父は新聞社までわざわざ行って、
綺麗なプリントされた
写真をもらってきた、、、

というのが、
彼の自慢話だったからです。

その写真は我が家の写真帳の中の
“Sakiko” の冊子の1ページ目に
貼られていて、

なにかと言うと父は私に
“お前は幸運な星の下で
生まれた”と言っていました。

父は、私も顔負けの、
“スーパー ポジティブ人間” で、

子供のころから私は、彼の話は
半分差し引いて聞く癖が
できていました。 

私の母は、新潟市郊外に生まれ、
新潟の市役所勤め。
父は、市内の総合病院の
事務長という仕事をしていて、

共働きのサラリーマンの中流家庭
といった感じだったと思います。

なので、生後6か月後くらいから、
保育所、そのあとは、
保育園に預けられました。 

当時住んでいた家は、新潟市の
中心街から徒歩約10分のところにある、
山の手の住宅街の入り口付近、

といった場所にあり、向かいには
消防署と警察署があり、その隣に、
新潟カトリック教会と

その横に、みその幼稚園と
その奥にみその保育園がありました。

ちょっとGOOGLE検索をしたら、
出てきたので、びっくりしました。

私が覚えているままの情景が
残っていて、感動してしまったので
リンクはっておきます。

新潟カトリック教会 
https://things-niigata.jp/other/niigata-catholic/  

みその保育園最後の日 
https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2011/03/post-53a6.html ) 

私の家は、この新潟カトリック
教会の入り口から30メートル
くらいの距離にあって、

教会の入り口付近には、
“幼稚園” 用の (これは、母親が
仕事をしていない子供が
行くところです。

仕事をしている母親の
子供が通うのは、この教会の
裏側にあった“保育園”でした。)

砂場や滑り台やブランコ、
ジャングルジムなどがあったので、

休みの日や、母親が夕飯を
作っているすきに、よくこの
遊び場に出かけて、遊んでいました。

この教会の地所内には、
神父になりたい人が来る
神学校とその寮があり、

さらにその奥にあった、
“みその保育園”は、
聖心布教姉妹会が運営していたので、

一般人である保母さんという
人たちと、ベールをかぶった
シスターという人たちが、

保育にあたっていました。ここ
にはシスターの寮もありました。

なぜ私がこんなカトリック系の
保育所と保育園に通ったのかというと、
ただただ、我が家に一番近かった
託児所だったからで、

私の両親がカトリック信者である
ということはまったくありません。

日本は世界の中でもめずらしい、
一般の人々が、色々な宗教を
ごちゃまぜにして、

日々の生活にとり入れてしまう
国だとつくづく思います。

こどもの誕生のお祝いや
新年のお祝いは
神道の神社へ、

結婚式は、神道の神社風の
つのかくしを装った後に、
カトリック教会風の
ウエディングドレスでのセレモニー、

お葬式は、仏教のお寺で行われ、
その後はその宗派のお墓に
入ってしまう。。。 

とにかく私の両親もこれにもれず、
全く宗教音痴な人たちだったのです。 

私の中でも宗教に縛られる
というような感覚は全く
ありませんでした。 

当然、一人で、みその幼稚園の
砂場のあたりに行くと、

神父候補生の若い男性や
シスターの寮に寄宿している
シスターたちが行き来するので、

ほとんど全員が私の友達と
なっていました。

それで、全く宗教心はないのに、
友達のシスターたちにくっついて、
教会のミサに行って、

なんだか白いおせんべいを
もらって食べたり、

神父候補生の青年らからは、
キリストという人の話を
聞いたりする機会が多かったです。

でも私が4~5歳の頃に、
シスターたちが話して聞かせた、
その主だか、キリストだか、というひとが

一回死んだ後に生き返った
という話は、たった4~5歳の頃の
わたしの中にある理論に
まっこうから矛盾していて、

これを「一回死んだ人間が
生き返るわけがないよ!」
とつよく批判してみました

(シスターたちや若い神学校の
神父候補生たちへですよ)が、
彼らは、ほほえみながら、

「主にはそれができたのですよ…」
とかなんとか、いつも、
上手に言い返されていて、

そのうち私はこの反論を
彼らにすることは、
あきらめました。

小さい頃から、人のいうことを、
うのみにせず自分で考えたことを
口に出して言う、“子供らしくないこども”

だったので、祖母(私の母の母)からは
「この子は手におえん…」と
いつも言われていました。 

保育園というところに行くのが、
嫌いだったので、保育園で
着なければならないスモックを

わざと家に忘れて行って、
近いからとってきます。
とほぼさんに言って、一人で家に戻り、

鍵をもっていたので、
家の中に1日中隠れていた
こともありました。

これは1回目でばれて
しまったので、2度とは
使えない手でしたね…。

あと覚えているのは、当時は
モダンな鉄筋コンクリート9階建ての
マンションがすぐ近くにできて、

そこに引っ越してきた20代の
スズキさんというおねえさんと
友達になったのですが、

この女性が神学校の候補生の
ヤマガシラさんという男性に恋をして… 

これは私の子供の目から見ても
明らかだったので、
2人に聞いてみたりはしました。

というより、はやしたてた
という方があたっているのかな、、、

「スズキさんのおねえさんは、
ヤマガシラさんのこと
好きなんでしょ?!!!」
みたいな感じで、

もちろんいつも否定されて
いたのだけれど、
真相がわかったのは、

父親がヤマガシラ神父候補を
我が家の夕食に呼んだあとで、
私の母親から

(“口に出しちゃ だめだよ”
という条件付きで)
確認した事実でした。

私は、神父候補生の
遊び友達が多かったので、
私の父は、だれか
新しい人が神学校に入って、

私と仲が良いと知ると、
大体 夕食に招いていたと
思います。スズキさんの

お姉さんも、夕飯を
一緒に食べたことが
あったと思います。

ヤマガシラ神父候補と
スズキさんのお姉さんを
2人一緒に夕食に招いたこともあり、

この食事の後で私に母親が、
「でもね ヤマガシラさんは、
キリストさまに全てをささげるから、

結婚はできないんだってさ。」
といった時には、子供なりの興奮が
冷めて、えらくがっかりした

ことを今でも、覚えています。

2. 6歳(小学校入学)から

こんなそんなで、大嫌いだった
保育園を卒業して、これも家から
歩いて5分位のところにあった

新潟小学校に入学します。
たしか1年生から
2年生くらいの時まで、

同じ保育園に居た
(母親も仕事をしていた)
3人の子供たちは、小学校の

授業が終わると、特別に
この保育園の一室でおやつをもらって、

夕方それぞれの親が迎えに来る
のを待っていた時期がありました。

ここでは、自分たちがえらく
大きくなったように感じた
思い出があります。

私は小学校の初めの頃は、
大変内気で、それに加えて、
教室の中で、いつも
白昼夢をみていました。

まったく学校で何をやって
いるのか、わからくて、
つまらなくて、ただそこに居る

時間が早く過ぎればいい…
くらいに考えていたのを
ぼんやり覚えています。 

今から思えば、私は
3月の早生まれだったので、
学齢にそぐうように身体が
発達していなかったのだろう

と思われます。 なので、
教室の中で先生が言うことも
よくわからないし、漢字の

テストをすれば、全然できない
クラス最下位だし…という感じで、

私は、本当に頭が悪いんだろうな…
と感じていました。それが、あれは
たしか3年生になったある日、

教室の中に座っていると、
急に先生のいうことが、耳の中に
飛び込んできたのです。これって何?! 

まさにあのアルキメデスも
びっくりのEureka !
(ユレカー!!!)  

言っていること、説明して
いることが、全てがわかった!!!
というすごい驚きの感じ。

「えええ… 今までこんな簡単で、
面白いこと 、この人たち
話してたんだね… 」

とびっくりした後は、言わずもがな、
成績はウナギ上りに上がり、
6年生の頃には、クラス1番、

学年でもほぼ1番 というような、
頭の悪い子供から 頭のいい子供に
大きく変身していました。

これは母親が、私が社会人に
なった時に、教えてくれた
話なのですが、

「あんた小学校の低学年の時に、
私はせんせいから呼び出されて、
おこられだんだよ。

お宅のお子さんIQは
学年一なのに、今の成績は
クラス最低です。もっと


勉強させてください・・・ってね。」
人に強いることが大嫌いな母親は、
放任主義の父親には、これを


言っていたらしいが、どちらの
側からも、私には一言も何も
お小言がきませんでした。
私が社会人になるまではですね…

小学校のころやった事で、
今から思えば、面白かったのは、
コーラスクラブです。確か

2回ほど新潟県の小学生の
合唱コンクールに出場
したことがあります。 成績は、

覚えていないので、きっと
よくはなかったのだろうな…
と思います。 

あとはレコード音楽鑑賞
クラブとか、なるべく簡単に
できそうなクラブに
所属していたと思います。


こんな私の性格は、6年生に
なっても内気なままでした。
中にこもる情熱や感情は
かなり激しく、負けず嫌いで

努力家ではありましたが、それを
すらすらと人前にさらけ出して
いけるような性格ではありませんでした。

特におぼえているのは、クラスの
中でやる、学期末の学芸会で、
出し物を考えて、人前で


何かを演じることが、本当に
苦痛だったのを覚えています。

ただ努力家だったから、毎朝
学校につくと朝礼前に
校庭を走ってその記録を

毎日クラス内の掲示板に
皆が書き込まなければ
ならなかったのだけれど、

それはいつもかなりな距離を
走っていて、とくにスポーツに
優れてはいなかった私ですが、

秋の運動会とかの
長距離のマラソン競争は、

(たしか海辺の砂浜を走るのよね、
距離はどのくらいだったのかな…
よく覚えていませんが)は、

学年でも3-4番だったように
覚えています。


とにかく、こんな内向的な
自分が嫌いで、何とか今度は
これを変えねば…と
考えていたのです。。。。。

今日はここまで~♪
パリ在住 英欧日ビジネスマッチング の
さきちゃんが語る

プロフィール第一部でした。
続きは、またあしたね
A demain !  See you tomorrow !

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