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羊の瞞し 第5章 CHAOTICな羊(1)

前話目次

(1)カオスへと



 どのような職業にも、存在する意義や目的がある。そこに共感や憧憬を抱き、加担しようとする働きこそ職業選択の動機となるはずだ。
 しかし、理想と現実のギャップは何処の世界にも存在する。簡潔に言えば、「期待外れ」という差異の実感だ。時間や空間、社会的地位、年齢など、そこに到達しないと見えないものは確かにある。いや、そこに至る道中でさえ、極端なギャップが発生することもある。
 仕事も同じだろう。それを「理想と現実」と割り切ることは、必ずしも容易ではない。戸惑い、悩み、意義を問い直し、ややもするとアイデンティティの崩壊にすら繋がり兼ねない……そんな人もいる筈だ。

 響は、ようやくピアノ調律師として仕事が回ってくるようになり、少しずつ活動の範囲を広げていた。ピアノに触れることさえなかった時期を経て、備品調律を任されるようになり、上司に同行した学校調律を経験し、嘱託調律師の不祥事も追い風になり、今では一人で個人ユーザーの外回り調律を行なっている。
 しかし、一つずつステップアップするに伴い、思い描いた姿からかけ離れていく現実に苛まれる様になった。
 響が、調律師の仕事に求めたもの……特殊な技術と感性を投入し、ピアノのポテンシャルを最大限に発揮させ、ユーザーに演奏の楽しさを知ってもらうこと。そして、演奏表現の幅を広げ、音楽を芸術としても娯楽としても享受してもらう為の存在……しかし、それらは単なる理想に過ぎないようだ。
 では、現実はどうだったのだろう?
 上司の梶山を見れば、一目瞭然だ。技術より話術を巧みに使い、最低限の音合わせを手早く処理し、質よりも量を求め、隙のない接客スキルに長けた営業活動だ。
 本格的な技術を活かす場はごく一部に限定され、また、技術が評価されるケースも殆んどない。身に付けた専門知識や高度な技術は、主に人を彩る「箔」として活用されるだけで、実務での使用は最小限に制限される。一方で、「箔」をチラつかせた言葉と振舞いで、いかにピアノが良くなったかと思い込ませることこそ、重要な技術なのだ。

 何よりも、そこには音楽文化を育む意識が致命的に欠如していると言えよう。技術より接客マナー——それはそのまま、父宗佑より梶山と換言出来る——が評価される世界、それがピアノ業界だ。
 果たして、ここに自分の居場所があるのだろうか?
 居るべき場所、居たい環境は見つかるのだろうか?
 知れば知るほど、夢から遠去かる世界。湧き上がる疑問と混沌とした我が身の境遇を直視出来ず、一般的なヽヽヽヽ調律師に向かって流されていく日々に、響は殆んど抗うこともなく飲み込まれつつあった。



 そんな折、千載一遇のチャンスが転がり込んで来た。オーバーホールだ。掘り起こしで拾った顧客、柳井啓子のピアノをオーバーホールするプロジェクトは、榊の的確な指揮の元、全てが順調に進むことになった。
 響は、父に虚偽の依頼をした。
 生真面目な宗佑は、興和楽器の顧客のピアノをコッソリ直すなんて話をしたら、間違いなく請けてくれない。なので、榊の了承の元、新たに創設された「ピアノ専科」の顧客と説明したのだ。榊から、オーバーホールに対応出来る会社を紹介してもらえないか? と打診されたことにした。事務手続き上は嘘ではないし、宗佑は工賃の請求書をピアノ専科に出すことになるので、むしろ辻褄も合わせ易い。
 結果、宗佑は修理依頼を快諾した。オーバーホールと言っても、外装の塗装は必要ないと伝えた。しかし、内部は全て新調する前提で見積りをお願いすると、三十〜五十万円と幅を持って提示された。この金額差は、主に部品代の違いだそうだ。特にハンマーは、ドイツ製の最高級部品と国産の廉価物では、三倍前後も金額が違ってくるとのこと。他の部品も、どういったランクのものを採用するかにより、金額も仕上りも大きく違うそうだ。なので、逆に予算に応じて任せてもらう方が、やり易いと言っていた。

 この話を電話で榊に報告書すると、数時間後に立ち寄った時には見積書が作成されていた。しかし、その工賃は機械的に四割増しにされており、運送費二回分がプラスされていた。差額は、榊が抜くのだろう。当然ながら、そうする権利はある。そうだとしても、ちょっと抜き過ぎな気もする……勿論、口には出さなかったが。
 榊によると、社印も明日には出来るようだ。なので、響は柳井啓子へ電話し、見積書は直接ポスティングする旨を伝えた。直ぐに発送すると言ってしまった手前、消印が明日以降の日付けになると信用を無くす可能性もあると思ったのだ。そこまでチェックするとも思えないが、慎重を期すに越したことはない。
 幸い、このことは好印象に繋がったようだ。電話口で、「申し訳ないですねぇ、わざわざ御足労頂かなくてもよろしいのに」と、とても丁重な口調で労われることになった。
「いえ、たまたま近くを通りますし、郵送より確実で早いので。それに、わざわざご対面頂かなくても、ポストに入れておくだけですからお気遣いなく」と嘘の説明をした。こういうことがスラスラと口に出来るようになったのは、梶山のおかげかもしれない。
「ご親切な方ね。じゃあ、お手数ですがよろしくお願いしますね」と、柳井は響に好感触を与える穏やかな口調で言った。



 見積書をポスティングした翌日には、響の携帯へ柳井から着信が入った。一番良い方法で直してください——と。冷静を保つのが困難なぐらい、舞い上がりそうな興奮を必死に抑え、直ぐに契約書を持って行くことや、今後の手順を大まかに説明した。電話を切ると、真っ先に榊へ報告した。幾つかの指示を貰い、時間が空いたら契約書を取りに来いと言われた。
 そこからは、トントン拍子に事は進んだ。榊が用意した契約書にサインを貰うと、翌日には搬出の日時が決まり、数日後には響の自宅工房へピアノが届いた。

 宗佑は、ピアノを見るなり「ゲッ、これは酷いな」と悪態をつき、黙り込んでしまった。しかし、言動とは裏腹に、明らかに機嫌が良さそうだ。久し振りのオーバーホールの作業を、誰よりも宗佑自身が楽しみにしていたことは間違いない。
 響は、仕事の合間を縫っては、僅かな時間でも手伝うようにした。幸い、教室回りの時期ということもあり、時間の融通は付けられた。
 教室のピアノなら、適当に一時間程度で終わらす術も身に付け、ある会場では三台を一日で済ませたが、一台しか出来なかったと虚偽の報告をし、二日をオーバーホールの手伝いに費やした。会社にバレるとクビになり兼ねない、かなり悪どい「サボり」だが、それまで真面目に業務をこなしてきた信用からか、或いは、新人がそのようなサボり方をするわけはないという先入観からか、誰からも疑われることはなかった。
 流石に一般家庭の訪問調律は誤魔化せないが、それでも予定をギリギリまで詰め込む努力をし、時間の捻出に努めたのだ。
 榊の運送屋でのバイトも、教室の調律を口実に何度か休んだ。オーバーホールを手伝いたかったのだ。七月は、終業後に教室の調律を行なっていたことを知っている榊は、幸いなことに「まぁ、無理はすんなよ」と言って出勤を無理強いはしなかった。
 後にも先にも、榊に対して意図的に嘘を吐いたのはこの時だけだ。

 しかし、十一月に入ると、教室の調律は口実に出来なくなり、宗佑から学ぶ時間は激減した。十月上旬から始まったオーバーホールだが、十一月下旬には納品することになっている。なので、宗佑も響の予定に合わせているゆとりはなく、着々と進めるしかないのだ。
 そして、十一月中頃になると、いよいよOTTOMEYERは元の姿を取り戻し、最終調整に取り掛かることになった。ここまで、本体の木工修理から弦の張替え、アクションの総取っ替え、鍵盤パーツの貼り替えなどが行われた。一度、見事にバラバラにされた状態のピアノは、少しずつパーツを新調しながら作り直されたのだ。
 ここからは、音とタッチの繊細な調整になる。基礎整調と呼ばれるタッチの初期設定とも言うべき調整を始め、一次整音やキーウェイト調整など、ピアノ製造時またはオーバーホール後にしか行われない作業も多く、響は学びたいことだらけだった。しかし、仕事もバイトも穴を空けられず、毎日後ろ髪を引かれる思いで家を出るしかなかった。

 響の勤務体制は、十一月に入るとショップスタッフの仕事はほぼ無くなり、外回り調律と営業活動に終始した。木村のカードだけでなく、六人在籍している嘱託調律師の不定期カードや繰越カードが響に回され、月のノルマも四十台に上げられた。
 そう、今月からは目標数値ではなく、「ノルマ」なのだ。責任と義務を負うことになる。でも、逆に言えば、正々堂々と「調律師」という肩書きを名乗ってもいいだろう。梶山によると、三ヶ月続けてノルマ割れすると減給のペナルティがあるそうだが、実際のところ、ノルマを達成する重みや困難さは全くピンとこなかった。
 それでも、明確に分かっていることはある。ノルマの為には、何よりも顧客カードが必要だということ。不定期や繰越という計算出来ない顧客とは言え、響に顧客カードを提供しないといけなくなった嘱託調律師の心情を思うと、申し訳ない気持ちで一杯だった。
 しかし、楽器店にとっては、正社員と嘱託調律師の違いは残酷な程大きい。会社として、正社員の売上げを増やそうとする動きは当然のことだ。嘱託調律師も、それぐらい理解しているだろう。苦々しくも、不平など言える立場でもない……嘱託調律師なんてそんなものだ。
 それでも、社員としては働きたくない……と判断した上で選択した道のはずだ。響にカードを取られたと不快に思われても、無視するしかない。

 自己申告制の週休二日制度も、厳しいノルマを課せられた社員調律師は、ほぼ休みを消化出来ないのが実態だが、響はノルマ割れ覚悟でフルに活用した。そうでもしないと、オーバーホールの手伝いが出来ない。いや、手伝うのではなく、修理の技術を学びたいのだ。
 父が行う修理は、調律学校は勿論、興和楽器で普通に仕事をしていても目にすることのない、特殊で専門的なものだ。構造論、材料力学、設計など、外回りだけでは触れることのないピアノの根幹を理解し、その領域に手を加え、組み立て直す作業は、修理と言うよりも製造に近いカテゴリーに思えた。作業のどの部分を切り取っても、響にはとても新鮮で知らないことばかりだ。

 そして、ついにOTTOMEYERは蘇った。試弾した響は、その仕上がりに驚愕するしかなかった。
 俊敏なタッチから立ち上がる鋭角的で近代的な音色は、この楽器の外観と妙にマッチした。指に吸い付くような鍵盤のレスポンスは、奏者の意のままに音楽を表現してくれ、柔らかなペダリングは表現に繊細な変化を彩ってくれた。とても弾きやすい。そして、とても味のある音だ。普段聞き慣れているKAYAMA社のピアノとは、その方向性や質感からして、全くの別物と言えるだろう。
 響は、早速榊に報告を入れた。納品や支払いの手続きに関しては、全て取り仕切ってくれることになった。ただ、納品後の調律——業界用語で「納調」と呼ばれる無料の点検調律——は、自分で好きなように手配しろ、と命じられた。無料といっても、お客様にとっての無料だ。調律師には、ピアノ専科から幾らか支払われることになる。その手配を一任されたのだ。
 つまり、篠原に見せたいなら勝手に依頼しな、ということだ。


(次へ)


今日から第5章『CHAOTICな羊』が始まりました。
4万文字弱、全9話の予定です。
自分で読み返してみたら、何とも堅苦しい始まり方になっておりました💦
あ〜あ、と思いつつ、中途半端になるので書き直しはしません🙇‍♀️(やり出したら終わらなくなるし😅)

響、宗佑、篠原、榊、梶山……が、それぞれの思惑で入り混じり、カオスな状態になっていきます。
衰退していくピアノ業界の中で、急成長を遂げるピアノ専科、その対比も描いていきます。
引き続き、お楽しみいただけますと幸いです。