窓外の雪に想いを馳せて(#シロクマ文芸部)
(本作は1,610文字、読了におよそ3〜4分ほどいただきます)
冬の色は白。そうイメージする人が多いらしい。雪からの連想だろうか。
冬の空も雲が薄く広がり、白っぽくなることがある。動物たちの体毛も、白く生え変わるものもある。だから、冬の色は白……。
でも、僕には関係のない話だ。
空調管理が徹底されている個室のベッドで、僕は今日も静かに一日を迎える。いや、一年を迎えると言うべきだろう。そう、確か今日は元旦のはず——。
サイドボードに飾られた小さな鏡餅が、謙虚に正月を主張している。でも、昨日も明日も、その違いは何もない。日常って言葉が皮肉なぐらい、ここには何もない……何もないのが、ここでの日常なのかもしれない。
白は無を意味するのなら、確かに冬の色は白。いや、冬だけではない。この部屋は、一年中「白」を暗示する。
窓から射し込む朝日が、足元の温度を少しだけ上昇させる。これで、快適プラス数度の室温になる。でも、理想の数値を保つことこそ快適と信じ込む人でさえ、その誤差は微々たるものだろう。
実際のところ、僕は適切とされる温度や湿度から導く環境に、快適を見出せないでいる。この部屋は、ただ窮屈で息苦しい。それは決して空調に起因しない。でも、もしそれを口にすると、身近な誰かがひどく悲しむ気がして、その言葉が形成される前に、胸の奥へと飲み込むことにしている。
もう一度、窓を見る。窓は、外界との唯一の接点だ。あの薄く脆いガラスの向こうには、常に移りゆく壁のない世界が広がっている。外の世界は、冬でも白くないのだ。
窓はこの部屋を演出する。真っ白なキャンパスに絵を描くように。或いは、真っ白な五線譜に音符を連ねるように。そう思うと、白は始まりの色、可能性を秘めた色でもある。好きなように彩れるのだから。
だから、僕は想像してみる。窓の向こうのある家庭では、今日という日を特別視し、家族や親戚が集まり、団欒し、新年を祝っているだろう。友達や恋人と初詣に出掛ける若者、公園で凧上げに興じる子ども達、旧友からの年賀状を読み、ノスタルジーに駆られる大人達……。
でも、そんなことはどうでもいい。もう何ヶ月も踏みしめたことのない土の上で、風と光を全身に浴びながら、ただ立ち尽くすだけ……それこそが僕の望むものだが、叶わぬ夢に過ぎない。時間も季節も失った真っ白なこの部屋で、窓は朝と夜を教えてくれ、天気や季節の移ろいを演出してくれる。でも、窓があるからこそ外に憧れ、正月の祝典的な儀式に想いを馳せたのかもしれない。
パパもママも先生も、もう少しで治ると言う。もうすぐ退院出来るかもしれないよ、だから、もうちょっと頑張るんだよと、励ましてくれる。それで僕が元気付けられると信じ込み、嘘を重ねる。空調管理と同じシステムだ。
うん、分かった。
僕、頑張るよ——。
希望を持ち、元気付けられたように演じるしかない。つまり、僕も同じシステムを利用する。それで、パパとママが安心するのなら、ちょっとぐらいの嘘なんてどうってことはない。昨日と何も変わらない今日を、めでたい日だと思い込み、祝うことと何が違うのだろうか?
人生は、真っ白な紙に色を塗り重ねていくようなもの。様々な色を重ねていき、個性が出来上がっていくのかもしれない。でも、僕は日に日に色が抜き取られている。やがて、白へと接近していくのだろう。燃え尽きた灰のように。
いつしか、はらはらと、窓の向こうに白い雪が舞い落ちるのが見える。こんなに晴れていても、雪って降るんだな……と不思議に思う。
ガラスのフィルターを通して室温を高めた日光も、きっと外では無力なぐらい寒いのかもしれない。でも、ここは暖かい。雪の冷たさも、僕には届かない。雪に触れ、冷たい空気を肌で感じたい。正月の雰囲気を、全身で受け止めたい。
でも、それを要求しても誰も喜ばない。だから、きっとこの部屋にいる方が快適なのだろう。そう思う方がずっと楽だから、そう自分に嘘をつく。
(了)
久しぶりの参加ですが、大昔に書いたお話を大幅にリライトしたものです。
ちょっと忙しくて、皆さまのご投稿をスルーしてしまっております。
すみません🙇♀️🙇♀️
明日から、通常モードに戻ります🙇♀️