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『ローマの休日』と『大阪城は五センチ』

 映画「ローマの休日」を初めて観たのは、中学生の頃でした。


 説明不要の名作ですが、ヘップバーン扮するアン王女の、職務を外れた時のピュアな可愛らしさ、そして職務に戻った時の威厳と気品に満ちた立ち居振る舞いのカッコ良さ、どちらもステキ過ぎて、どちらからどちらを見てもギャップの大きさが魅力的で、まさにオードリー・ヘップバーンの為の映画とも言えるでしょう。
 なかでも、特に印象的だったのは「真実の口」のシーンです。
 ジョー・ブラッドレー(グレゴリー・ペック)という新聞記者が「真実の口」にそっと手を入れると引っ張り込まれてしまい、アンがパニックになりながら懸命に引っこ抜くと、ジョーの手先がなくなっている……と、そういう書き方をするとホラーみたいですが、全てジョーがアンを揶揄うための演技で、無くなったかに見えた手も、単に袖の中に引っ込めていただけなのです。でも、このシーンのヘップバーンの騙されっぷりは、全編を通しても際立ってキュートなのです。
 実は、後から知ったのですが、このジョーの行動は台本にはなかったそうで、全てグレゴリー・ペックによるアドリブだったのです。なので、ビックリしているアン王は、演技ではなく素のままのヘップバーンなのです。このシーンを観て以来、いつか「真実の口」を見に行きたいとずっと思っていたのです。

 それから約十年後、願いは叶いました。ナポリのピアノ商に就職した私は、休暇を利用してローマ観光に出向いたのです。当然ながら、あこがれの「真実の口」にも行きました。
 実は、「真実の口」はローマの「サンタ・マリア・イン・コスメディン教会」という小さな教会の中にあり、周囲には観光名所はないため、わざわざそこだけに行く感じになるのです。
 それなのに、観光客の来訪は絶えません。いつも混み合っています。その為、「真実の口」に手を入れるのは一人一回という制限も出来ましたし、今は写真も一人一枚しか撮れないそうです。
 これは、単なる混雑の対応だけではなく、「真実の口」という文化財を守るためでもあるのです。「ローマの休日」以降、この口に手を突っ込みたい人が世界中から集まるようになり、少しずつ擦り減ってしまったのか、口が広がっているのです。
 ちなみに、この「真実の口」という丸い石の彫刻は、元はローマ時代のマンホールの蓋だったのです。いつから装飾品として飾られるようになったのかは定かではないのですが、「ローマの休日」のヒットがなければ、ここまで人気のあるスポットにはなっていなかったでしょう。

 そして、ようやく実物を見ることが出来た「真実の口」ですが、「え? 何これ、ショボッ!」というのが感想です。一人旅だったので、そっと手を入れただけで写真も撮らずに帰りました。対面時間、僅か十秒ぐらい。でも、それで十分でした。映画の中に留めておくべきものでした。ガッカリした、というと言い過ぎかもしれませんが、期待を塗り替えるような感動はありませんでした。(個人の感想です)

 逆のケースもあります。同じ『ローマの休日』に使われた場所ですと、「トレヴィの泉」は想像以上に洗練されていて、とにかく綺麗に整備された泉で感動しましたし、スペイン広場はすごく賑やかで、華やかな場所でした。(個人の感想です)
 しかも、この二つの名所は徒歩で移動出来る距離にありますので、その点も「真実の口」よりオススメ出来る観光スポットです。
 私が訪問した時は、スペイン広場での飲食は既に条例で禁止されており、この階段でジェラートを食べるという目標は叶いませんでしたが、ほんの十数分ぐらい、階段の中腹にのんびりと腰をおろし、ただただボーッと過ごした時間は今思うと本当に贅沢な体験だったと思います。
 ちなみに、現在は階段での座り込みも禁止されています。



 長い前置きになりましたが、ここからが本題です。

 ヱリさんの創作大賞2024への応募作、『大阪城は五センチ』を読み終えた時、しばし放心状態になりました。素晴らし過ぎたのです。ちょっとレベチというのか、すごい作品に出会ってしまったという衝撃と感動から、これ、受賞間違いないでしょ、と思いました。
 生憎、読了が8/1で「創作大賞感想」の〆切も過ぎてしまっており、応援記事の投稿が間に合わなかったのですが、「読書記録」として書き残しておきたくなり、今更ながら「感想文」を書くことにしました。

 今年の創作大賞は、私自身が体調不良のために不参加に近い形だったこともあり、それほど沢山の作品を読んだわけではありませんが、あくまで私が読んだ中では、という条件では、南ノ三奈乃さんの『太宰治は、二度死んだ』とこの作品は群を抜いていると思います。

『大阪城は五センチ』の話に戻りますが、この作品はヱリさんの卓越した文章力や表現力はもちろんのこと、ストーリーも人物描写も、そして何より人物の心象描写も、適切な語彙が思い浮かばないぐらい素晴らしいのです。
 そして、noteでは比較的少数派かもしれない、正真正銘の「純文学」作品でもあります。昨今の芥川賞受賞作品とも共通するような、現代社会のちょっとした闇や生き辛さ、その中でもがきながら何とか生き抜く姿……「推し、燃ゆ」や「コンビニ人間」、「火花」、「おいしいごはんが食べられますように」などにも通じるモチーフのように感じました。(個人の感想です)


 私なりに感じたこの作品のテーマは、「お金」「家」「愛」の三つです。主人公の女性由鶴は恋愛経験が乏しくも、コツコツと貯金を貯めており、増えていく通帳の預金残高を見ることがアイデンティティの支えになっているような感じなのです。
 また、漠然と「家」を持つことにも妙な執着があります。家族から促され、本当に欲しいのか分からないまま、成り行きから物件を探すことになるのですが、気乗りしないまま、何故か焦燥感のようなものも生まれ、家探しをするようになっているのです。
 そして、恋愛……これは一人でどうこう出来るものではないものの、女性風俗を利用してみて「宇治」というセラピストと出会い、少し沼ってしまうのです。月に一度、二時間だけの関係ですが、もう一年も繰り返しており、宇治に恋心を抱いているのです。

 由鶴は、決して仕事が生き甲斐というわけでもなく、際立った趣味や取り柄があるわけでもなく、平凡に淡々と歳を重ねているだけで、女性一人での生き辛さや孤独というのか、社会での閉塞感のようなものが文面から滲み出てくるのです。
 唯一の拠り所は1,000万円に達した貯金です。通帳に蓄積されていく数値は、由鶴にとっては自分が生きてきた証、生きている証なのでしょう。きっと、現実の「お金」ではなく、「数値」や「データ」に安心しているのかもしれません。
 家探しも、少しずつ本腰を入れるようになります。資料を取寄せ、図面やデータを眺めても、それは通帳の残高と同じで、リアルな存在にはならないのです。
 そう、由鶴にとってのお金や家は、アンリアルなデータと触れ合っているだけで、リアルな「物質」として手に触れるものではないのです。
 そんな中、唯一リアルな接触を重ねているのが、宇治です。セラピストと客という関係ではあるものの、実際に会い、会話を楽しみ、身体に触れ、行為を重ね、恋心まで抱いているのです。

 しかし、最後の最後、貯金をおろし、現実の家を手に入れるのですが……たったこれだけ? と物理的な万札の体積に、バーチャルとのギャップを感じます。もちろん、価値が変わるわけではないのですが、ずっと思い描いていたものを現実に手にした時、思っていたのとは違ったという、それだけのことです。
 まさに、それは私にとっての「真実の口」のような感覚だったのかもしれません。一方で、現実の家には資料や想像とは違う満足や充実感が生まれます。こちらは、「トレビの泉」なのです。と、無理矢理前半と繋げてみました。

 宇治との関係も、転換期を迎えます。三つのテーマの中では、唯一元から「現物」に触れていたものですが……偶然、セラピストではなく一社会人としての宇治と会ってしまったのです。それを機にリアルな宇治を知るにつれ、今までの関係が全て「バーチャル」だったことに気付くのです。
 物理的な接触も会話も、全て現実でありながらも「ホンモノ」の宇治ではなく、宇治というセラピストを演じている実態のない存在なのです。そう、由鶴は、虚像の人物に恋心を抱いていたのです。
 幸か不幸か、リアルな宇治も凄く良い人だったのは読者にとっては救いですが、でも、由鶴にとってはもう知っている宇治ではないのです。だからこそ、叶わぬ恋だと悟ることになるのです。

 あくまで個人的な感想ですが、バーチャルとリアルのギャップ、これこそが、この作品の隠れたテーマだったのかもしれません。そして、夢や希望なんてものは、現実を知り、受け止めることから始まるのです。
 現実を手にし、現実を知り、現実を受け止めた由鶴の人生は、ポジティブな気持ちで再スタートを切ることになるのかな、というところで、物語は幕を下ろします。

 文芸を愛する人ならば、絶対に読んでおくべき作品です。未読の方には、是非読んで欲しいと思います。