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プライベード出産を選ぶ理由

プライベード出産の経験があることを知ると、大抵の人は、わたしのことを精神的に強くて健康で出産にたいしての知識があるのだと考える。

実は、すべて真逆なんですよ?

精神的にもろく・・・恐れや不安はいつも奥の方にある。

健康に関しては、10代から長く不調を抱えてきたのよ。

そしてお産についての、知識などまるでない。だから本を探した。

40代になった今、心身ともに最も安定している。

それはすべての体験が今のわたしをつくっている証しだ。

今のわたしは、信頼と自由の意味が深まり、幸せと健康に満ちている。

出産について具体的に考えるようになったのは、12年前、はじめて妊娠したときだった。その頃、長年抱えていた不整脈の症状に、病院での投薬治療から離れて5年以上経過していた。自然療法やエネルギーワーク・瞑想を取り入れ、その効果への実感を深めていた頃だった。こどもを授かった驚きと喜びとともに、大きく深く感じざるを得なかったのは未知なる出産への恐れだった。果たしてわたしの心臓は耐えられるのだろうか?と。喜びとともに、恐れと不安で泣いたのをよく覚えている。

深い恐れを感じながらも、自宅出産という選択肢に憧れを抱いていた。

もしも可能なら自宅出産をしたいと。なぜか・・思っていた。

当時、そのイメージが、様々な方との出会いを結んでくれた。自宅出産という点においてのご縁は至らなかったが、助産院での出産への光をもたらしてくれたのは、当時住んでいた神奈川県から300キロ以上離れた愛知県にあった。

妊娠8ヶ月になるころ、わたしは両親の家に居候する生活をしていた。両親の意向を無視してまで、300キロ離れた場所で出産できるほどには・・このうちなる衝動に飛び込める勇気がなかった。その頃のわたしにとっては、両親が安心してくれることが、わたしの安心に繋がっていた。それをはっきりと自覚したとき、実家からほど近い場所に、分娩台ではなく、畳で出産ができるアクティブバースを取り入れている病院に出会った。一人目の子をここで出産した。とても親切な環境だったが、とても不自然であることを、出産時に深く実感した。陣痛が始まってから、陣痛の最中、移動をしなければならない苦痛。自分が思う通りに体を動かしていても、横からこうしてみたら?と突然声をかけられ意識が別の場所へいってしまう感覚。内診を常に求められ断る・・という流れ自体の不安定さ。(わたしは本能的にいやだから断ってるけど、もしかして断ってるから赤ちゃんがなかなかでてこないのでは?などとあらぬ心配をしていたのを覚えている)

ようやく誕生した赤ちゃんを胸で抱きとめる時間の短いこと。その後、手術台のようなものに乗せられて胎盤を人為的に引っ張りだしたこと。おっぱいがなかなかでなくて、体重が減ってるから赤ちゃんによくないからと砂糖水をのませることになったこと。すべては医療的な観点からみたら当たり前のこととして進んでいくが、自分にとってはあまりにも不自然に感じられた。うまく説明はできないが、自然な環境での出産への思いを強くした。

自然・・というワードのなかにあらゆる意味を含んで。そこには、全てにつながる答えがあると直感した。

生後4ヶ月経った頃、パートナーが長野県の山の上にある古民家をみつけてきた。わたしたちは、移住し、新しい生活を自然のなかではじめた。そして数年後、2人目を妊娠した。2人目の出産のとき、わたしは自宅出産を叶えることになった。助産師さんが来てくれて、母が家の手伝いをしにきてくれて、古民家はとても寒いので、パートナーは産むためのあたたかな部屋を数ヶ月かけて準備してくれ、迎えた出産だった。

わたしがこの時体験した出産は、自宅であるという・・それはそれは本能的な安心感に守られていたものだった。その頃もまだ不整脈の症状はもっていたので、肉体への心配はあったし、貧血気味だったので、出血のリスクもあることは承知していた。でも、そのような医学的な判断を超えて・・・自宅という安心感がわたしを大きく包んでくれていた。そして不思議だったのは、おしるしがはじまり、陣痛が少しずつ始まる頃には、助産師さんがいると、体が緊張しやすくなり陣痛が遠のくということだった。とても信頼している助産師さんだったのだが、わたしの体はそのように反応した。陣痛の最中、このようにしたら?というアドバイスに従ったが、それによって私自身が楽になれたと全く感じることができなかった。逆に何か大切なものをロスしてしまった感覚があった。それは、いのちの営みへの信頼の感覚といえる。それを失ってしまい、うちなる衝動に任せることが容易ではなくなってしまった。

それでもちゃんと我が子はうまれてきてくれた。とても感動した。でもどこかで、深い部分に欠乏感があったのだ。わずかに・・でもはっきりと感じたその違和感が、次なる3人目の子の出産において、プライベート出産という流れに導いていた。

プライベート出産は いのちの営みへの信頼を育てる


3人目を宿したストーリーには実は私自身の再誕生というエネルギーに包まれていた。それについて少し紹介しているのがこの記事

自分自身の心身の不調をきっかけに一人瞑想旅に訪れたインドのテンプルで突如湧いてきた祈り。そして、そのまま受胎し祈った日から十月十日でうまれてきた3人目の子。

この子を受胎してから、わたしの脳裏に描かれるのはプライベート出産のイメージだけだった。しかし、しかし、当時のわたしには、そこに飛び込むには大きな勇気と覚悟が必要だった。まだ万全とはいえない体への不安。

考えはあらゆるリスクにたいして、何かできることを欲した。

出血・逆子・会陰裂傷・胎盤が自然にでてきてくれるか(いままでいつも人為的だったので最も心配していた)・あかちゃんが呼吸をしていなかったら・へその緒を切るタイミング などなど あらゆる リスクや知らないことについて、調べた。想定されるリスクにたいして、できることを決めて、準備していった。

準備をしながら、こころと体がこれから迎える出産という最終セレモニーにむけて着々と準備をしているのを感じていた。わたしの心持ちはそうしていなければ落ち着かなかった。わたしはそんなに強い人間じゃない。弱い。怖くてなんども逃げ出したくなった。そこまでしてなぜプライベート出産へ向かおうとしたのか?

出産は いのち の 営み への信頼をとりもどす機会

本能的な力につながる体験を求めていた

もともとわたしたちひとりひとりに備わっている力 が 出産時に開く という 直感 

いのちの神秘をこの身体で体験したいという欲求

安心を医学的データに求めることの失望感。わたしたちは、安心をどこに求めているのでしょう?わたしたちが今まで求めてきた安心は、頭で理解できる世界のはなし。そしてそれをどんなに求めて追求しても、真の安心感にはたどり着けないという実感。

生きているとは もっと もっと 深い領域 頭で理解できることではない。いのちの営みへの信頼を取り戻したい、もっと感じたい!!という衝動。

いのちが うまれ 死んでいくというエッセンスに触れることができる 神秘的な領域。

3人目の子の意志は、はっきりとプライベート出産を望んでいた。

「死」 と、 とことん向き合う、出産への道のりだった。

明日死んでも後悔がない。ただただ 今 この瞬間に輝いて生きる 美しさ

死とは、頭で考えれば 恐れでしかない。でも、本来、それは、いのちの営みの一部であり、わたしのなかに確かにある大切なエッセンスそのもの。

さまざまな深い内的な体験を深めながら迎えた出産。

おしるしがきて、しばらくすると、わたしはこれからはじまる出産から逃げ出したくなった。その瞬間、体が一気に震えだした。数分全身が震えた後、突如、思考も体もリラックスした。体は生きようとしている。それを体験した。

内なる衝動に従いながら、赤ちゃんが生まれ出ようとする力を感じながらゆっくり呼吸をし続けた。わたしはずっと左を下にした半身で横たわっていた。プライベート出産の体験者の本には、スクワットや歩き回ったりしていると楽で、目を瞑らない方がよい!とあったが、わたしの内的な衝動はずっと逆をもとめ、横たわり、目を瞑っていた。

意識が突然変化した。わたしはインドのテンプルにいた。

いま生まれ出ようとしているこの子の受胎を祈ったテンプルだった。

そしてそこで、受け取ったメッセージ

「今こそ、あなたの家は、このテンプルのエネルギーそのものになります」

同時に 霧雨のような柔らかい雨の音がしはじめた。

家を取り巻くように優しい雨が降り始めていた。龍神様を感じた。神聖な領域への扉が開かれていく様子をありありと感じていた。

なぜか涙が溢れた。なんともいえない 幸せの感覚だった。

出産にむかう陣痛という肉体的には強烈な状態の最中、無意識の世界と意識の世界の「繋がりの領域」が開かれていた。

その安心感の深さは、わたしを どこまでも 波に浮かぶ浮き輪のように体をリラックスさせた。

長女が時折、わたしの枕元にもってくるお手紙。そこにはこれから誕生してくる赤ちゃんへの応援歌にあふれていた。手紙を読むことはその時のわたしには不自然だったから読んでいなかったが、何を伝えにきているかがありありと手に取るように感じ取られた。祈りと賛美の手紙だった。

エネルギーに敏感だった。わたしがいる空間のなかにいるひとりひとりのエネルギーをありありと感じていた。深く深く繋がりあっていることを感じられた。言葉は必要なかった。繋がりを感じることの安心感に浸っていた。

ひとの命の誕生とは、本来、とても神聖なものである、その直感をあの時感じた欠乏感がなぜあったか、を、深く理解した瞬間だった。

出産がもつエネルギーは、あまりにもプライベートなものなのだ。

男女のまじわりに、公的な場所を好むでしょうか?

あかちゃんのエネルギーとの一体感。こころからあかちゃんの誕生への祈りを寄せるものたちとの繋がり。魂と魂の出会い。それぞれの命が放つ周波数のふれあい。

わたしたちのいのちそのものが存在しえる領域との繋がりに開かれた神秘的なタイミング。それをただただ感じる世界。それを敏感に感じ取り、それぞれのハートに従い、陣痛のプロセスを見守る家族との時間。

繋がり 魂 をとりもどす

もともと わたしたちは 魂であり 繋がりあう存在だ。

直感的にそれを深い衝動として感じていても、わたしを育んだ両親や社会・信頼する先生がもつ考えに当てはまらない私の中にある感覚をどのように扱って良いのか、それを本当に信頼して大丈夫なのか。それで生きていけるのか。この社会で、満足な生活をしていけるのか。そのように考える。

その体験もひとつの体験として熟成され

本来の 純粋な シンプルな 領域との繋がりを取り戻した。

内側にあらわれる感覚の精妙なる正確さ。

ひとりひとりが どれほどに 違い ユニークなのか という 深い理解。

あなたと わたしは 違う

そして わたしと あなたは つながっている

わたしは、死をどのよに迎えるかについて 近頃考えることも増えた。

プライベート出産をしながら感じたのだ。

うまれることも 死ぬことも エネルギー的には同じ体験であること。

あなたがうまてきてくれたこと ともに感じあえた日々に 感謝に溢れる瞬間。

死の瞬間も 同じエネルギーが流れるのだと。

この体験が、いま、わたしの音楽活動やオリジナルワークにつながっている。

いのちの奇跡を抱きしめて味わう この瞬間の美しさとともに。

あたらしいこれからを ともに生きて生きましょう!!

YouTubeチャンネルで音楽作品の視聴もかねた動画を配信してます。ぜひ聴いてみてください



わたしの活動にご興味あるかたはHPぜひご訪問ください welcome





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