練習は知るためではない

今、日本にいますが、公共交通機関の乗り方、ゴミの出しから、家電製品の使い方など色々フランスの生活と違って戸惑いました。全部知っていることなのに、体に馴染むのに時間がかかるのです。

知っているということは「すんなりできる」ということにはならないのです。

例えば、洗濯機の使い方に慣れるのに1週間。洗濯のタイミングに慣れるのにさらに数日。生活のリズムができたら帰る日が来てしまうという感じです。洗濯機は機械が違うだけではなく洗濯時間や手順などが違うため、考えずに出来る域になかなかなれないのもあります。

旅行先で戸惑うのならそれも旅の醍醐味といえますが今回はそんな余裕がなくて。

ピアノなど楽器の練習は「身体に馴染むまでやる」必要があるんだなと、今回の滞在を通じてしみじみと感じました。

ピアノでどういう音を出すべきなのかはわかっている。だからってピアノをすんなり弾けるとは限りません。音の意味を考えて「こういう風に弾こう」というのを考えて、それらを何も考えずにできる域になって初めてその曲を「弾ける」となるのです。

フォルマシオン・ミュジカルも同じ。知識として知っているだけではなく、それらを使って音楽を読み取れるようになるには、知識を自家薬籠中の物としていくことが大切になります。

そのために小さいうちから少しずつ、なんとなく学ぶという過程を積み重ねていく必要があります。そして小さいうちは特に遊びを通じて繰り返し学ぶことで、体の芯から知識を身につけることになります。

私の師匠が「若いうちに暗譜した曲は今でも安心して弾ける」とおっしゃっていました。それは若いから覚えやすいというのはあるのでしょうが、若いうちにやったということはその後も繰り返しやることで回数を重ねるのもあるかと思います。

ただ、繰り返しやるのであっても無意味に繰り返すのではなく、1回1回が学びになるような繰り返し方ができることが理想ですよね。

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