見出し画像

#4誰でも音楽の才能に恵まれている

こんにちは。きっこです。
今日は以前から気になっていたクリストファー・スモールの「ミュージッキング 音楽は<行為>である」をご紹介します。「はじめに」に当たる「プレリュード」を読み始めたときから、共感と驚きで惹きこまれ興奮して一気に読みました。ピアノのレッスンに関わる方にはぜひ読んでいただきたいです。

音楽とピアノが大好きでピアノのレッスンをしている先生方でも、私のようにレッスンに中に居心地の悪さを感じる方はいらっしゃるのではないでしょうか。例えば、

・小さな生徒さんの溢れ出る音楽を制止して型に当てはめようとするとき。
楽譜通りではないけれど、生き生きと演奏をする生徒さんを目の前にしたとき。
・子どもの頃ピアノを習っていたのに、音楽をコンプレックスのように話す保護者と出会ったとき。

こんなとき、ふと立ち止まってしまう先生方にはぜひオススメしたい本です。ピアノレッスンの現場では慣例として当たり前に行われいていることを捉え直すヒントが詰まっています。

この本は著者の二つの確信から出発しています。

音楽行為に参加することは人間であることの重要な部分である。話すことと同じぐらいに人間性の本質に関わる

人間なら誰でも、会話と同じように、音楽の才能に恵まれている

著者はシンフォニー・コンサートで一体何が起こっているのかを注意深く検討し、シンフォニー・コンサートという出来事全体としての意味を探求することでミュージッキングの理論に辿たどりつこうと試みます。

ここでは、ピアノの指導者という立場で日々のレッスンに関わると思われることを、著書を横断的に抜粋してご紹介します。

ミュージッキングはパフォーマンスこそが根本

著者は「ミュージッキングmusicking」という言葉を次のように定義します。

どんな立場からであれ音楽的なパフォーマンスに参加することであり、これには演奏することも、リハーサルや練習も、パフォーマンスのラメの素材を提供すること(つまり作曲すること)も、ダンスも含まれる。
パフォーマーとその他の人々のしていることの間に区別を設けない。その場にいる全ての人々が巻き込まれている。

このミュージッキングの理論を通して、音楽人生をよりよくコントロールできるようになるとします。そして、ミュージッキングの理論が意識され思考されない限り、私たちの音楽的な活動はその能力を制限され支配され続けて、支配者に操作されやすい対象になると言います。

そして、そのミュージッキングは、パフォーマンスの中でしか存在し得ないと言います。

それは、次のような理由です。

音楽作品の音の一つ一つを見てみると、音は音にすぎませんが、豊かな意味を持つには、互いに他の音と関係するように配置されなければなりません。そうして作り出される音の連なりがいくつか関連づけられて音楽作品がその全体像を結びます。

しかし私たちの聴覚的な知覚の間にある関係は、聞こえてきません。

関係とは物理的な出来事ではなく、心的(メンタル)な出来事で、関係は心の中で作られます。

関係を知覚してそれに意味を与えることは、能動的なプロセスで、音の関係から意味を生み出せるだけの準備ができていない限り、音楽作品は存在し得ません。

音楽作品が、演奏家が奏で、聴き手が聴く、音同士の関係の中に存在するなら、音楽作品はパフォーマンスの中でしか存在しえない、ということになる。

パフォーマンスこそがミュージッキングの過程の根本なのであり、その他全てのプロセスはそこから派生するに過ぎないのだと言います。

音楽作品、楽譜はそんなに大切か?

著者は楽譜を崇拝する立場に疑問を持ちます。また音楽作品が自律して価値を持つことにも疑義の念を抱きます。

西洋のコンサート文化では演奏が楽譜に全面的に依存しているが、これは奇妙に両義的で、世界の音楽文化の中でも独特な実践だ。
西洋クラシック音楽文化の事実上の全ての作品の思考に、演奏家がすばやくアクセスすることも可能にした。しかし他方で、演奏を書かれたものだけに限定してしまうと、我流の演奏力を衰退させかねない。
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、さらには(中略)その他の<大作曲家>の誰も、作曲や演奏で、楽譜に全面的に依存してなどいなかった。誰もが作曲と演奏の両面で、記譜に基づいたモードと非記譜のモードの両方に堪能だったし、状況によって二つの間を容易にスイッチできた。
楽譜はもちろん音楽作品ではないし、作品を代表するものですらない。それは演奏をーつまり適切に遂行することで音楽作品と呼ばれる特定の音の組み合わせをー作り出すことを可能にし、しかも好きなだけその音の組み合わせを繰り返すことを可能にする、コード化された一連の指示書にすぎない。
音楽を書き記す行為は、作曲行為のずっと後に始まるが、これは人間のミュージッキングに標準的に備わるものではなく、むしろ例外に属する。
曲は珍重するためのものではなく演奏するためのもので、パフォーマンスの目的は曲の提示ではなく、その出来事(イベント)に相応しい演奏をすることなのだ。
今日のコンサート・ホールや録音時の演奏を特徴づけている、作曲家の意図通りの音に対するしつこい忠誠の強要は、比較的新しい現象なのであって、せいぜい私が生き的たこの時代に始まったに過ぎない。
今日、ソナタ形式と呼ばれているものは、衝突と解決というドラマを効果的にするために発達してきた物語の技術で成り立っている。ソナタの体系化が進み、現代の学生におなじみの「提示」「展開」「再現」「第一主題と第二主題などの分析装置が出現したのは、19世紀の後半である。18世紀から19世紀初頭にかけてのシンフォニー最盛期の巨匠たちは、こうした用語を知らなかった。
楽譜の研究を通じて発達した、ソナタ形式という概念とその分析概念は、限られた範囲では確かに有用性を発揮したものの、概してミュージシャンにある誤解をもたらしたと言える。ー時間とともに発展する音の出来事(イベント)を、静止した構造として、あたかも全体を見渡すかのような視点がもたらされたのだ。静止した構造という概念には、永久不変性か少なくとも永続性の含みがある。しかもいったん音んがく作品を構造として見始めると、パフォーマンスの儚さやダイナミズムとは無縁なイメージが喚起されやすい。す。
私が訝しく思うのは次のことだ。ー教科書やレコードの解説で、「ソナタ形式」や「ロンド形式」と言った構造を熱心に説明する人びとは、シンフォニーという物語の核心にあるはずの「次は何?」というエキサイティングなミステリーを破壊し続けているのではないか?この破壊によって、シンフォニー(およびあらゆるすべての物語)が展開する時に表現されているはずの人間と世界との繋がりに関わる大事な問題が、曖昧にされているのではないか。

ピアノ教室は、ともすると「楽譜を読む教室」になりかねません。ピアノを弾くことを目指しているはずが、いつの間にか楽譜が読めるようになることとが目的となってしまっていることに気づく時はないでしょうか。

ピアノ教室では楽譜が持つ役割を過剰に捉える傾向にあるのではないでしょうか。「楽譜が正しく読めるようになること」をレッスンの対価として期待されていると感じることもあります。「レッスンに通ったのに楽譜を読めるようにならなかった」というクレームを恐れています。そのことにとらわれて本当に音楽をすることを置き去りにしていないか?とレッスンを見直す必要を感じました。

シンフォニー・コンサート会場で見られるいくつもの分断

著者はシンフォニー・コンサートを取り上げる中で、ここで起きている様々な分断を見つけます。

建物内部と外部の分断

人々を日常から切り離してホールの中に隔離し、次に一部の人々を一つの集団にまとめ上げ、その他の人々を各々孤立したままにする。そして、前者に支配的な身分を、後者には従属的な身分を割りふる。そうして、一方向のコミュニケーションを促進するのである。
現代のシンフォニー・コンサートは、そこで演奏される作品が初演された頃とは、かなり異なったものになっているということだ。だから、現在のコンサート・ホールをディズニーランドを原型とする現代的なテーマパークに喩えたところで全く見当違いなことではないだろう。どちらも人工的な環境を作り出すための最新の技術がさりげなく注ぎ込まれている。そして、そこを訪れる消費者は、彼らの体験がはるか昔から当然のものとして行われてきたことの再現なのだと思い込まされる。どちらも徹底して、前代的な世界の関係を祝うという現代的な出来事に他ならない。

観客同士の孤立

(シンフォニー・コンサートに集まった人々は)友人同士で訪れたとしても、いったん演奏が始まれば、座席に座って身じろぎもせず、互いにアイコンタクトを交わすことさえ避けて、一人一人極めて個人的に演奏を体験する。どんな種類のパフォマンスであれ、そこに集う人々はたった一人の個人として、孤立した状態で演奏を経験するのだし、そうすることを期待してもいる。

演奏者と観客(生産者と消費者)

近代的なコンサート・ホールは、音楽パフォーマンスというものが一方向のコミュニケーションシステムーつまり作曲家から演奏家を媒介して聴き手へと伝えられるコミュニケーションーだという想定のもとに作られている。
(コンサートにいる私たちは)参加者というよりもむしろ傍観者に近い。演奏中の静寂は、(中略)パフォーマンス自体にはなんの貢献もできないことを物語っている。
私たちとその見世物製作者(作曲者、オーケストラ、指揮者、裏方の人たち)との間にある関係は、消費者と生産者の間にある関係と同じものである。私たちにできることは普通の消費者と同じで、買うか買わないかを決めることだけなのだ。

プロの演奏家とアマチュア(ミュージシャンかそれ以外か)

19世紀も半ばに差し掛かるまで、欧米でフルタイムの専門集団として知られていたオーケストラは事実上存在しなかった。当時オーケストラでは、アマチュアとプロ路が肩を並べて演奏することが通例だったのだ。ベートーベンの初期のシンフォニーを演奏したオーケストラには、プロとあまの双方が入り混じっていたし、モーツアルトが書いたコンチェルトの多くは現在でいうアマチュアのピアニストのために書かれたものである。
この状況に終止符を打ったのが、旅回りのヴィルトゥオーソとプロモーターの登場だった。そこには凄まじいまでのテクニックで持ってアマチュアをステージから追い出したリストやパガニーニ、その他大勢のヴィルトゥオーソや、アマチュアには答えられないほどの要求をオーケストラに突きつけるようになった作曲家だけが該当するのではない。自らの富と権力を誇示したいと切望しながらも、貴族のように公の音楽界を支配できずにいた新興の中産階級、それらに巨大な商業的可能性を見出したヴィルトゥオーソたち全員が含まれる。
アマチュア・ミュージシャンの公のステージからの排除は、ミュージッキングに対する人間の態度の、根本的な変化を意味している。つまり、それまでの音楽作品が演奏のために作られてきたのに対して、今や作品は聴くためのものとなり、私たちはその作曲と演奏のために専門家を雇うようになった。(中略)こうして、聴き手という新たなターゲットが生まれ、そのターゲットに強いインパクトを与えられるものほど、良い曲だということになった。
音楽の意味が作品の中だけに秘められるという通年が受け入れられると、次のような態度の変化も、必然的に起こってくる。すなわち、私たちは可能な限り完璧な演奏で作品を聴きたいと思い始めるのだ。だが、この種の完璧主義の代償がいかに大きいものかということこそ、しっかり認識される必要がある。
その代償とは、完璧主義と一緒になって現れる通年—世の中のほとんどの人間には音楽パフォーマンスで積極的な役割を果たすだけの能力がない、という通年であり、このために圧倒的多数がミュージシャンの住む音楽の世界から締め出されているという現実である。コンサートホールという、二つに切り離された世界にあからさまに象徴されているのは、まさにその分離なのだ。凡人は、専門家によってあてがわれる音楽の消費者になるべく、運命付けられている。

以上のような分断を目の当たりに、著者は、シンフォニー・コンサートが祝うのは、調和や合意、親密さではなく、むしろ、金の行き来に支配された社会、人間が生産者と消費者に分離された社会における、非人間的な関係のようにも見えると指摘しています。

日常の音楽実践

著者は自身の周りの大人の多くが自分は音楽ができないと思っていると言います。このことは私自身もピアノ教室をやっていると感じることがあります。子どもの頃にピアノ教室に通っていたという大人は多いけれど、楽しかった思い出として話す人は多くなく、ほとんどの人が苦々しい表情でそのことを語るか、また一生懸命に取り組んでいた人からは、試すような競うような目を向けられます。総じて居心地の悪さを感じることが多いの現状です。

ピアノ教室は一部の人にピアノの楽しさを教え、一方で一部の人が音楽を自分のものと思えなくする役割を担ってしまっているのではないか。ピアノ教室が「自分は音楽ができない、向いていない、音楽が好きではない」と思わせるきっかけになってしまっているのではないか、ということを感じずにはいられません。

その理由として著書は次のように考えます。

周囲の人間が執拗に彼らを非音楽的だと教え込んだ、というものだ。
世間一般の人々の音楽せいの芽をつむ働きをする力は、多種多様だ。真の音楽的才能がダイヤモンドのように希少でランを育てるように難しい、という前提の元にしか存在し得ないスーパースター・システムもそのひとつだ。
何者かが、知的で聡明な若者たちに向かって、「あなたは歌えない」「歌うべきではない」と、いわれのない判断を吹き込んでいる。
悲しいかな、学校と、そして学校が提供する音楽の授業も、この音楽性の剥奪の過程に貢献している。あまりにも多くの音楽教師が、自分たちの仕事のことを、一人ひとりの子どもが持つ音楽性の発達の手助けをするのではなく、プロになる可能性を秘めた才能を発掘し選別することだと考えている。
もし音楽することが、人間と生きたい世界全体の壮大な結び合せるパターンとの繋がりを探求し確認し、祝う行為なのだとすれば、どんなミュージッキングも真剣に取り上げられるべき活動なはず。
全てのミュージッキングが真剣な営みなのであれば、それぞれのミュージッキングに優劣の判断を下せるわけがない。

多くのピアノ教室の現場では、優劣の判断をつけ、プロと比較して音楽的才能があるのかどうかを見定められるような環境があったのではないでしょうか。そのことによって多くの大人が苦々しい経験としてピアノ教室について語るのではないでしょうか。

ミュージッキングの機能が参加者の理想的な関係のあり方を探求し、確認し、祝うことだとすれば、最上のパフォーマンスとは、その技術的なレベル如何に関わらず、包括的に、巧妙に、そして明白に全ての参加者をミュージッキングに駆り立てるものでなければならない。この包括性、巧妙さ、明白さ、は芸術的な技巧にかかっているのではなくて、むしろ参加者(つまり演奏者と聴き手の両方)が、自分たちのベストを尽くすかどうかにかかっている。
この考えに従えば、最上(ベスト)という言葉は技術のことだけではなく、愛着をともなう関心や細部にいたるまでの注意と共に出現する、パフォーマンス時の全ての繋がりのことを言っていることになる。

ピアノのレッスンでは、生徒と先生がピアノを囲み、音楽を通してコミュニケーションしているという、まさにミュージッキングの現場であると言えます。

そのレッスンというミュージッキングが最上のものとなっているかどうか、本来のミュージッキングから離れた例外的事柄に気を取られていないか、生徒さんに「音楽ができない」と思わせていないか。

日常生活の数少ないミュージッキングとなっているかもしれない貴重な時間をどのように過ごすのか、ベストなパフォーマンスを作り出そうとすることがそれぞれの指導者にごとに託されています。


お読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは書籍や楽譜の購入にありがたく使わせていただきます。応援したいと思っていただけたらサポートしていただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします!