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見えない/くっきり見える

久保さん、皆さん、こんにちは。
南波です。

今日は梅雨の中休み。カラッと晴れて気持ちがいいですね。
ベランダでは朝顔のつるが四方八方に伸びて、ゆらゆら揺れています。
去年の夏は、この伸び過ぎたつるが下の階のお宅のベランダまで行ってしまい、ご迷惑をおかけしてしまったようなので、今年は気をつけながら横へ横へと誘引したいと思います。

久保さん、お祝いメッセージをありがとうございました。
しちしちしじゅうきゅうさいになりました。
夫に「40代最後の年、どう生きたいですか?」と問われたので、「ますますハッピーに」と答えました。

どうしたらハッピーでいられるのか、というのは、いろんな人がいろんな形で教えてくれていますから、それに関してはもう本当に心配いらないな、と思っています。
ベランダの植物や、訪ねてくる鳥たちの生きる姿から教わることもたくさんありますし、家族や友達と美味しいものを囲んでいる時にしみじみ見えてくることもたくさんあります。仕事で関わっている先生たちの、何が飛んできてもプラス側に跳ね返すぞという姿勢からもたくさん学ばせてもらっていますし、息子の学校で、会議の最後にみんなで詩を唱えている時に「おお、これは!」と気づかされることも、あります。

私たちの「思い」は目に見えなくて、でもこの目に見えない「思い」が目に見える事柄を日々大きく動かしているのだと、たくさんの方がおっしゃっていますし私自身もその通りだと思うので、その目に見えないものの扱いを少しでも心得たいものだと日々考えています。

そんなわけで最近は、物理学の本と般若心経の本とシュタイナー哲学の本を回しながら読んでいます。
どれも自分にとって「難しい」と以前は敬遠していたものですが、この3つが繋がっていると気づいてからは、すごく楽しく読めるようになりました。
ひとつひとつをきちんと理解できているかはわかりませんが、「これとこれは同じことを言っているんだな」と関連づけることで、世界がよりくっきり見えてくるんじゃないかと思っています。

「くっきり」と言えば、ここのところ老眼が進んだのか、周りの人たちの顔が以前よりもくっきり見えるようになりました。特に目のあたりがはっきりくっきり見えて、「ああ、この方はこういうお顔だったのか」とはっとするのです。
このことを人に話すと「こわい」と言われたりもしますが(顔なんてぼんやり見えているくらいの方がいいと言う人もいますから)、私にとっては悪いことではなく、どの方とも、とても新鮮な出会い直しをしています。

久保さん、フジコ・ヘミングさんのコンサートに行かれたのですね。それはもう素晴らしい時間だったでしょうね。
実は私も20年くらい前にコンサートに行ったことがあるのです。
フジコさんと言えばリストの「ラ・カンパネラ」ですが、弾き始めてすぐに何かを感じられたようで、客席に向かって「もう一回」と微笑まれてから弾き直してくださったのが印象的でした。
その時の演奏ももちろん素晴らしかったのですが、さらに年月を経て久保さんがお聴きになった演奏は、フジコさんの魅力と曲の美しさがより抽出されているのではと想像し、本当に羨ましく思います。
またぜひ感想を聞かせてください。演奏だけでなく、話される言葉やファッションも大好きなので、どんなご様子だったか気になります。

私も地道にコツコツ、毎日ピアノを弾いています。
ずっと同じ曲たちを弾き続けていて、聞こえている人にはあまり変化がないように思われるかもしれませんが、自分の中では毎日発見があります。これもまた目に見えない自分の意識をどこに向けるかで演奏が変わるので、面白い。
最近は息子の方が手が大きくなって、彼が以前より弾きやすそうにしている姿を見ると悔しくもなりますが(私の手はもう大きくならないから)、私もフジコさんを追いかけて、とにかく弾き続けようと思います。

遠くでスズメのヒナがちよちよ言っています。
彼らは夏までに何回卵を産み育てるのでしょうね。
うちのベランダにも毎朝来てくれるのですが、米だけでなく、最近はブルーベリーの実もつついて食べています。
「生きねば」とただ遺伝子にインプットされて、なんでもつついているだけかもしれませんが、「これ食べられるかな?」「食べてみよう」「意外と美味しいぞ」「やったー!今日もある」と思いながら食べてくれてたらいいな、と楽しく想像しています。
上の写真のブルーベリーは本日私たち人間用に残ったもの。大切にいただきましょう。

皆さま、良い週末をお過ごしください。

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