大きな滝の下で

マイナスイオンの恵みを感じながら、遥か山奥へとやってきた翠は石に腰掛けた。
目の前には大きな滝があった。時々飛んでくる水沫は冷たく、いつもの定位置である苔が生えたは心なしかいつもよりフワフワしてて居心地が良かった。滝壺に水が叩きつけられる音や、が風に揺れ葉が擦れる音、鳥の鳴き声など、山奥は意外と騒がしかった。

毎週末、翠はこのに滝を見に来ると決めていた。そんな生活が2年ほど続いた。ちょっとした変化も気づくくらいにこの滝に詳しくなった。

なぜ、翠は滝を見に来るようになったのか。
翠が弱い人間だったからである。愛想笑いの化粧を厚く塗り、一見誰にでもフランクに接してるように見えるが、腹の中では誰にも心は開いていない。何かに熱中したこともなく、ただ人生という逃れることのできない物語の脇役として日々生きているだけである。しかし、たまたま軽い気持ちでやってきたこの森の滝に魅了された。

それはそれは大きな滝だった。
荘厳でもあるが、どこか哀愁を感じさせる。そして、四季折々の表情を魅せるこの滝に、翠は惹かれていった。
春の華やかな滝。
夏の生命力に溢れた滝。
秋の鮮やかな滝。
冬の物静かな滝。
滝壺の泡沫に、小鳥のさえずり、森の音色。全てが翠を包み込んだ。
1ヶ月も通えば、翠はこの滝の虜になっていた。

そんな森の滝と翠、両者の関係は永くは続かなかった。翠が就職をすることになったためである。もう今までのように毎週のようにこの滝に来ることはできない。は彼女を引き止めなかった。小鳥たちは悲しんだ。滝はいつものように荘厳だった。

翠は滝と出会って美しくなった。
彼女にもう愛想笑いの化粧は必要ない。
翠は滝と出会って逞しくなった。
彼女は腹を割って話すようになった。

翠は滝にお別れを告げた。もう2度と来ることはないだろう。しかし、森は彼女をまた受け入れる覚悟があった。小鳥たちは彼女とまた歌いたかった。滝はいつも通りの力強さを持っていた。
森は彼女に魔法をかけた。彼女が森を忘れないように。彼女がまた戻って来られるように。
小鳥は彼女に物を贈った。彼女が辛くとも立ち直れるように。彼女が前を向いて生きていけるように。
滝は何もしなかった。いつも通りだった。それでいて少し嬉しそうだった。

滝は彼女が自分から卒業したことが嬉しかった。
滝の望みはただ彼女が自分の人生を主人公として生きることだった。そのため、滝は滝に依存している彼女を心配していた。彼女は滝の気持ちに気づくことはなかった。滝は彼女が気づいていないことも知っていた。その上で、翠が名残惜しまないように、悲しまないように、いつも通り、ただただ滝壺に水を打ちつけていた。

翠はそっといつもの岩に腰をおろし、苔を撫でながら言った。
「ありがとう。そしてさようなら。」

翠の頬には滝の水沫ではないものが伝っていた。

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