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人を傷つけない配慮した作品は表現の自由を奪うか ~①~


「誰かの自由(気持ち良さ)は誰かを傷つけてはいけない」と書いたらいろんなリプがきました。

中でも特に早くお返事したいとおもったものがあります。
「誰も傷つけない表現ばかりになると表現の自由を奪うのではないか」
「ショッキングな内容でも良作品はある」


表現の自由。歌や演技で表現にかかわるわたしと常に一緒にいるものです。そんな表現の自由と人を傷つけないということが両立するのか書いてみました。

結論から言うと「誰かを傷つけない配慮という前提があっても、表現の自由は奪わない」です。


血だらけのグロテスクな映画、レイプシーンがある作品、作品のために必要な差別表現。表現の自由が保障された作品の中にはその作品によって人を傷つける表現がある場合もあります。

表現の自由と人を傷つけないこと。境界線はどこなのでしょうか?

まず、誰かの行動が誰かに影響を与えることを、コミュニケーションと呼ぶことにします。このコミュニケーションには2種類あります

・直接的コミュニケーション
・間接的コミュニケーション

直接的コミュニケーションとは直接意思を伝え合う行為です。
顔を突き合わせて話すこともあれば、電話やネット上の言葉、または言葉を使わないボディランゲージなどで意思を伝えることもあると思います。


間接的コミュニケーションとは伝えたいメッセージを別の形に変化させて伝える行為です。
例えば自分の想いを歌にする、社会的メッセージを映像にこめる、自分の考える世界を小説にする。そのように「作品化」することです。
作品には大小を問わず、作り手の意思や考え、想いが反映されるものです。
メッセージ性がないように思える作品にも必ずメッセージはあり、時にはメッセージがないことさえメッセージになりえます。


直接的コミュニケーションで「誰かの自由のために、誰かを傷つけてはいけない」は絶対原則。

個人それぞれが頭の中で何を思い考えるのか。それは100%保障された自由です。でもそれを”どのように”表に出すかには制約がつきます。
それが自由の持つ責任「誰かを傷つけない前提での自由」です。

分かりやすいのは、自分の考えのために火炎瓶を投げてアピールすることはいけないことです。
日常的にいうなら、自分の意見を通すために相手の外見を嘲笑して優位に立とうとするのは正攻法ではありません。

オレンジ~黄色のグラデーションに対して「黄色だ」という主張を通すために、オレンジだと言う人に暴力的な行為をする人もいます。「お前はXX人だから黄色に見えないんだ!」という人がいます。
こういった言葉や行動は、伝えたい内容があっても、そのメッセージを通すために人を貶めたり傷つける行為なのでやっていはいけないことです。「なぜ黄色と思うのか」を真摯に説明していくほかありません。

グラデーション

「誰かを傷つける表現が必要」となる時。

続き②

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