”ひと”のもつ可能性について
A-yogaのなかでも大切にしていること
その"人" の持つ可能性を引き出す事。
それが大事であることは間違いのないことで、確かに大切に伝えていた。
それが 8月初旬に出た研修で、更に思いを新たにした。
ヨガの誘導でも、”こうしたい””この方向に連れていきたい”が強い、と指摘を受けていた。
それがどういうことなのか、なぜ、少し悪い空気感をまとって指摘されるのか、なぜ、私がどのようなマインドでいてもそういう誘導になってしまうのか 正直とても悩んでいた。
それのひとつの答えが、その研修でみえた。
”○○”でなければならない
”○○”あるべき
そんな小さい時からの 価値観の押し付けが構築されて 私のすべてのモノの見方の基準だったこと。
身体の可能性は無限に広がっている、と伝えながら
誘導の方法や その声掛けの根本は、” ○○であるべき” の枠のモノの見方から抜け出しきれていなかった。
○○であるべき、それから外れるから 色々なトラブルが起こっていたんだと思っていたし、その”正解”を伝えることがなぜ駄目なのかが理解しがたかった。正解 をずっと求めていたし、”正論であること”が大事なんだと思っていた。だから衝突も多かったと思うし、相手を理解したくても、コチラの思い込みで動いたことがたくさんあったんだと思う。
こんな風にして、たくさんの枠を創って、逆にたくさんの可能性を閉じていたこと。小さく小さくしてしまっていたこと。
可能性なんて、いくらでも無限にあって。”○○じゃなきゃいけない”の外に、無限に可能性が広がっている。
最低限の心地よく生きる基本的なルールはある。
けれど、それ以外は、可能性でしかない。
その可能性を限りなく受け取り、表現や体現できるように
その可能性を 実態として形や動きにする 肉体である身体 がとても大事になる事。
私の仕事はきっと、その”身体”を、そのひとが思う存分使い切れるような 可能性を引き出す事。
ちなみに、5月にも面白い体験をしていた。
水の中で、ただ 信頼して相手に体を預けて、身体と水を一体化して動かされる、という体験(洗濯機で選択されているのタオルのように 笑)
鼻をクリップで止めて、揺られてぐるぐる回転したり、普段の生活や陸の上では考えられれないくらい、自由に柔軟に身体が動いていた。何時も体の硬い私が、こんなに身体が動くのだと、かなり驚いた。
ということは、身体の動きの可能性を止めているのは”自分”が思い込んでいる概念。
だから本当に、自分の可能性について 否定しなくていいし 決めつけなくていいし 排除しなくていいんだ。 すべてのことを。
もちろん、否定したかったり排除したい時期もあるだろう。
それでも、ずっと永遠にそれは必要ではなくて。手放せそうになったら手を離したらいい。
有限であること、を決めているのは、その言葉を その概念を 選択して納得しているのは、いつも 自分。
あなたも、私自身も 可能性しかない。
どこまでいってしまおう?
わくわく楽しみながら、いこう。