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【インタビュー記事】

 今回は、マイボ!(少年少女サッカーポータルサイト)さんからの引用記事です。取材を受けたのは、約5年前、2016年になります。

【インタビュー記事】
本コーナーでは、現役のサッカー指導者にインタビューして、各指導者が持つ理念や独自のメソッドを紹介してもらいます。

日本は8000チームほどの少年サッカーチームがあると言われています。更に、それと同等以上の数でサッカー指導者が存在します。しかし、そういった指導者の実態は、各サッカーチームに所属してみないと分からないのが現状です。

そこで、マイボ!編集局がインタビューし、彼らのサッカー指導を明らかにしていきたいと思います。これにより、サッカー少年少女達のチーム選びや、日本のサッカー育成に貢献することが目的です。

今回は、東京都国分寺市にあるワセダJFC・国分寺キッズアカデミーの鎌田豊さんにインタビューさせて頂きました。

ワセダJFC:鎌田 豊 監督

中学生からサッカーを始める。高校ではサッカーの強豪校に入部し、努力を重ねてAチームに上がることを成し遂げる。大学では膝の大怪我を機に、サッカーの指導者としての道を進みだす。卒業後、ドイツへ留学しコーチングを学びながら、7部リーグでプレー。帰国後は、営業マンとして社会経験や中学高校で講師や教員として務めた後、サッカースクール運営会社にて普及育成部長としてサッカースクールやフィジカルクラスの事業を発展させる。現在はワセダJFCで代表兼監督を行う一方で、国分寺キッズアカデミーを主催。


Q.選手としてサッカーを始めたのはいつでしたか?

サッカーを始めたのは、中学校からです。それまでは、野球と水泳をやっていました。高校ではサッカーの強豪校と言われるチームに在籍していました。最初はCチームからスタートしましたが、努力を重ねてAチームに上がることができました。

Q.大学以降はどのようなキャリアを積みましたか?

大学では、前十字靭帯断裂を機に、母校の中学校でサッカーの指導者を始めました。そして、卒業に際して、体育教師になろうと考えていましたが、これからの体育教師は多くの経験を積んだ人材が求められていると考えていたので、海外留学と社会人経験を積みたいと考えていました。そこで、まずはドイツへコーチングの留学をしました。結局、家庭の事情で現地でのインターンシップ受講には至らなかったのですが、4歳から10歳までの指導者講習会を自力で受け、ドイツサッカー協会公認の証明書と修了証は頂きました。何より、そこで見たドイツサッカー及びコーチングは大変勉強になりました。そして、帰国後は社会経験として普通の企業で営業を3年間経験しました。最終的には、体育教師ではなく念願のサッカー指導者としての道を選びましたが、これらの経験は指導者としての大きな礎になっていると思います。

Q.選手を引退し、サッカーの指導者になろうと決意したのは何がきっかけですか?

 指導者になりたいと思ったきっかけは過去に遡るのですが。中学校時代に尊敬できる指導者の方とお会いした経験からですね。今でも私が目指すべき指導者の姿です。その方との出会いがきっかけとなり、指導者の道を具体的にイメージするようになりました。

 そして、サッカーの指導者の道を突き詰めようと思ったのは、母校で指導した経験からです。指導者を続けていると、教え子が顔を出してくれることがあります。中には、サッカーで全国大会に出場するような選手や学校の教師、理学療法士になるものもいました。彼らの活躍を見たり聞いたりすると、指導者としてのキャリアを突き詰めたいと思うようになりましたね。

Q.鎌田さんからは強いバイタリティを感じますが、源はどのようなものでしょうか?

 成長したいという強い思いです。先にお伝えした高校サッカー部での話ですが、そのサッカー部は部員が100人以上いて、サッカー推薦が毎年25人もいるようなところでした。正直、才能では完敗するような選手ばかりでしたが、どうにかして上に上がろうと思い、本当にがむしゃらに練習しました。すると、非推薦組が2名しかいないAチームに入ることができました。

 こういった経験のように、最初は難しくても努力によって乗り越えるといった経験を積むことで、ハングリー精神が身についてきたのかなと思います。子供達にも、中学校からサッカーを始め、非推薦組にも関わらず強豪サッカー部のAチームに入れたことは、話すようにしています。

Q.営業を経験した後は、指導者としてどのような経験を積みましたか?

 その後は、公立中学校や高校、特別支援学校で体育講師をしながら、サッカー部のコーチやトレセンコーチとして活動していました。ご縁があり、長野県の私立高校で教員として、サッカー部でヘッドコーチをやっていました。その他にも、北信越フットサル連盟所属の社会人フットサルチームでフィジカルコーチを務めたり、中学校のサッカー部の指導にも携わったりしていました。講師や教員としては5年ほど活動していたのですが、本当に多くの指導者経験を積むことができました。
 その後、サッカースクール運営会社にご縁があり、東京で指導者としてキャリアを再スタートしました。そして、現在は独立して、ワセダJFCで代表兼監督を任せてもらい、昨年11月から「国分寺キッズアカデミー」を創設し、2つの組織を運営しております。

Q.フィジカルコーチになろうと思った理由は何ですか?

 サッカーは【テクニック】と【フィジカル】が融合し、【判断力】が求められるスポーツです。これを、小さい頃からしっかりと教わることが出来れば、世界でも戦える選手が生まれるはずだという考え方がベースにあります。
 例えば、単純にサッカーのパス交換をする練習でも、フィジカル的な要素が多く含まれています。選手と選手の距離であったり、走るスピードであったり、そういったフィジカル的な練習の意味を理解していることとしていないことでは、大きな差がつくのではないかと考えていました。元々、私は理系で、数字が大好きでした。
 そのため、フィジカルトレーニングは定量的に行うものなので、違和感なく入り込めました。また、独自の専門性を持ちたかったのも理由の一つです。漠然とサッカーを教えても、私の市場価値は高くならないと思っていましたが、南米やヨーロッパに目を向けると、ジュニア世代からフィジカルコーチが在籍しているチームもあります。しかし、日本ではまだそこまでフィジカルコーチの重要性が認知されていないので、私がフィジカルコーチとしての市場価値を高めていきたいと思うようになりました。

Q. アジアサッカー連盟公認フィジカルコーチライセンスの研修はどのようなことを行うのでしょうか?

 簡単にお伝えすると、1年目はサッカーにおける体力トレーニング理論サッカー選手の体力測定評価トレーニングプランを学び、2年目はサッカーパワートレーニングを学びました。
 形式としては、座学と実践の双方があります。実践としては、心拍数を計測する装置を付けて、トレーニングごとのインテンシティを調べたり、パフォーマンス向上に役立つ体力測定を行ったり、指導実践も行いました。そして、次の段階としては、自チームを対象に実践して、フィジカルテストのデータ収集を行いました。最終的には、スポーツ生理学やスポーツ医学などの筆記テストを行い、指導実践をパスする必要があります。研修のインストラクターはYOYOテストを考案したイエンス・バングスボーさんとコペンハーゲンのトップコーチが勤め、英語で行われるため通訳の方がサポートしてくださいました。

Q.アジアサッカー連盟フィットネスライセンスLevel1には、どういった方が参加されていましたか?
 Jリーグや海外で活躍されているコーチの方々が多くいらっしゃいました。その他、日本代表のコーチまでいらっしゃったので、そういった方々との交流は大変勉強になりました。総勢18名いましたが、小学生の指導者は私一人だけでした。

Q.監督を務められているワセダJFCをどのようにしていきたいですか?

 まずは、チームとして拡大していきたいなと思っています。そして指導の方針としては、心を鍛えることと集団の中の個を大切にしています。フィジカルコーチの私が言うのも変ですが、結局は心が体を動かしているので、どんなにフィジカルを鍛えても心が育っていなければ体は動きません。そのため、ワセダJFCでは「駆け引き好きのハードファイター集団」というコンセプトを打ち立てて、心の育成と個の育成を行っています。

Q.ワセダJFCでは具体的にどのような指導を行っているのですか?

 年間でのプランニングまで落とし込んで行っています。目標とする大会の結果を進捗として確認し、トレーニングを修正しながら強化しています。私の専門性を活かして、定量的にトレーニングを行えるところが、ワセダJFCの特徴と言えると思います。例えば、プレイタイム、休憩、練習の回数、オフシーズンとオンシーズンのフィットネス、など事細かにトレーニング計画に落とし込んでいます。今のところ、比較的計画通りに育成が進んでいますが、一番大切にしているのは小学校卒業後につながる個の育成です。数年先をイメージしながら指導を行っています。

Q.鎌田さんの目標を教えてください

 小学生年代のフィジカルコーチとして、日本代表を指導できるようになることです。そして、いつかは日本を代表するジュニアのコーチにもなることが私の目標です。私がドイツ留学した時は、元ブンデスリーガの監督が、幼児世代のインストラクターを務めていました。そのように、指導者が世代を跨ぐことは日本では多くありません。だからこそ、フィジカルコーチとしてその壁を破れたらなと思っています。いずれは、そうなっていかないと、日本は世界で太刀打ちできないのではないかと、危機感を持っています。そのためにも、自己研鑽を続けながら、様々な仕事に挑戦するようにしています。そして、いずれは個人としてトレーニングを考案して、それを広めていくこもやってみたいと考えています。

○2016年の記事になります

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