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<第5回>未来への「希望」について、とめどなく考える日々

いったい、どのように収拾がつくのか見当もつかないコロナ禍のなかにあっても、人類の未来には「希望」を持ち続けたいものだと思います。希望の対象には、たくさんのものがあります。わたし個人としての希望? 親として、子供としての家族? あるいは、所属する組織? たまたま住んでいる地域共同体? 偶然に国籍を持つ国家? サピエンス種としての人類? 乗組員の一員としての宇宙船地球号? 太陽系惑星の所属する銀河系? もしかして、ダークマター? ……はてさて、茫洋としてしまいますが、私がもっとも希望を持っていたいのは、縁あって書籍と書籍に関わるすべての人たちの明るい未来です。そんなことをとめどもなく考えた酷暑のこの夏、私が手にした書籍は以下の4冊でした、

≪今月の購入リスト≫
①『ビジョナリーカンパニーZERO』ジム・コリンズ 日経BP 2021/8/19
②『死者と霊性 近代を問い直す』末松文美士編 岩波新書 2021/8/24
③『憎むのでもなく、許すのでもなく ユダヤ人一斉検挙の夜』ボリス・シリュルニク 吉田書店 2014/3/10
④『心のレジリエンス 物語としての告白』ボリス・シリュルニク 吉田書店 2014/12/20

※①は大垣書店イオンモールKYOTO店で、②は喜久屋書店草津店で購入。③④は巡回した書店で見当たらなかったので、Amazonで中古品を購入。のつもりでしたが、翌日届いた商品は版元から直送されてきたほぼ新品(返品改装分で割引値段!)、しかも新聞などの書評コピーが数枚、同梱されていました。ちょっと幸せな気分になれて、感激です!

■2021年7月31日
『「悪」の進化論』⇒進化論の受容にも、西欧社会に惨事をもたらした不幸な歴史が

京都の同志社大学の学生に向けて行なった佐藤優さんの講義録です。同大学では、「サイエンスコミュニケーター」という文理を横断する学生の育成に力を入れているそうです。「しっかり科学を理解して自分で判断する能力のある人材の育成」をめざすとのこと。素晴らしい理念だと思います。
その講座に招かれた神学者(プロテスタント)としての著者が、神学が持つ学際的な能力、高度な通訳(翻訳)能力を駆使して、学生に教育を授けようと試みた講義が本書の元となりました(オンライン講義だったそうです)。
進化論が人びとに受容されていく負の側面について、主に優生学的な視点からスペンサー、ヒトラー、マルクス、レーニン、スターリンと論じていき、進化論学者ドーキンスの無神論と、その反論と続きます。ところどころ興味深い小ネタが挟まれ、知的好奇心を刺激されますが、誤植があったり、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に関する致命的なミスリード【※註1】や、夏目漱石の作品に対する言及もあまり意味を感じられず、納得がいかないものでした(あくまでも個人的な感想です)。タイトルの「悪」そのものについても考察がなされていないようで、進化論受容の一歴史をたどる講義の書として読みました。

講義の元となる参考文献『ヒトラーの秘密図書館』(ティモシー・ライバック/文春文庫)、『神は妄想である 宗教との決別』(リチャード・ドーキンス/早川書房)、『神は妄想か? 無神論原理主義とドーキンスによる神の否定』(A・E・マクグラス/教文館)が、ちょっと気になります。書店で目にしたら買ってしまいそうです。

【註1】
P.290において、レーニンのミイラ化保存の理由として、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老のエピソードを問い、「聖人だから遺体が腐敗しなかった」という学生の答えを引き出して、レーニンは聖人だからということでミイラ化を図ったのだと説きます。ところが『カラマーゾフの兄弟』の作中では、聖人であるゾシマ長老は生前、理想的な神父でありながら、あろうことか死後、肉体が腐敗してしまったのです。しかも、通常より早まった腐敗で、おぞましい臭気まで放つものでした。『カラマーゾフの兄弟』では、そのため未来の社会革命家たる(もし『カラマーゾフの兄弟』の続編があったらですが)純朴な主人公のひとり、アリョーシャを絶望させ、僧院の場から市井に追いやる契機となります。作中ではきわめて重要なポイントです。「聖人であるにもかかわらず遺体が腐敗した」、それが、作中で正しく起こったことであり、現実であるにも関わらず、レーニンのミイラ化で腐敗を糊塗し、聖人化を成し遂げようと企図したというのは、かなりアイロニカルな説明だと言わざるを得ません。

ちなみに、私はキリスト教徒ではありませんが、『カラマーゾフの兄弟』でのゾシマ長老の法話で忘れられないものと言えば、「教友諸師よ、『地獄とは何ぞや』と考えるとき、私はこう考える。『もはや愛することができないという苦悶』であると」(ロシア文学者・池田健太郎)という一文です。これはまた、J・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』所収の名短編「エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに」で、ノルマンディー上陸作戦後の傷心の主人公が、進駐したドイツでの休暇中に、たまたま手に取ったヨーゼフ・ゲッベルス著『未曾有の時代』(架空の書?)の余白に誰かが誠実に書き込んだ「神よ、人生は地獄です」の言葉に応対するために書こうとして、神経衰弱のために書き得なかった文章です。わたしも、人が人を愛することができなくなれば、まさに人生は地獄だと、強く共感します。

■2021年8月15日
『Humankind 希望の歴史(上・下)』⇒希望を信じることは、ひと筋縄ではいかない

気を取り直して、次にご紹介するのは、翻訳のおかげでしょうか、とても読みやすいノンフィクションです。デンマークのジャーナリスト、ルトガー・ブレグマンが人間の性善説を信じ、その証明を追い求めて取材したものです。もちろん、生来お人好しのわたしも、これまで性善説に立って生きてきましたし、これからも変わることはないでしょう。

進化論のなかでも主流派のドーキンスの主著は、『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)です。タイトルどおり、遺伝子は利己的な保存永続を狙って生を営みますが、利他的な要素もプログラムされているものだと知りました。究極の自己犠牲についても、ちょっと考えました。とはいえ、人間の本質を理解するのに、ほんとうに性善説でいいのでしょうか。

著者のルトガー・ブレグマンは、「ほとんどの人は本質的にかなり善良だ」という過激(?)なテーゼから出発します。人間は本質的に利己的で攻撃的で、すぐにパニックを起こす、「人間の道徳性は、薄いベニヤ板のようなものであり、少々の衝撃ですぐに破れる」という認識に対する批判を、「ベニヤ説」(生物学者フランス・ドウ・ヴァール)として紹介します。戦争の爆撃であれ、自然災害であれ、困難なときにこそ人は最高の自分になると、各種の事例を引いて「ベニヤ説」を打ち破ろうと試みるのが本書の内容となります(とはいえ、当局や権力者は別だと、本文ではしばしば強調しています)。
西洋では、人間は本来、利己的だという見方には、神聖な伝統があるといいます。最初の歴史家トゥキュディデス、マッキャヴェッリ、ホッブス、ルター、ニーチェ、フロイトなど偉大な思想家や、キリスト教においても最初期から人間に対しては否定的な見方が浸透していました。原罪の概念ですね。プロテスタントであっても、「ハイデルベルクの信仰問答(1563年)」で、人間は「いかなる善行も行えず、あらゆる悪に傾いている」と告げているそう。進化論のダーウィンやスペンサーも優生思想として受け取られてきたりしました。いやはや、うんざりです。性悪説の提唱者はいずれも、現実主義者(リアリスト)として賞賛されてきました。
近年では多様な科学者たちが、この人間に対する暗い考え方に異を唱えるようになったといいます。かつては、人間の善性を主張するのは、時の権力者に反抗することだった、という指摘が、本書での著者の立場を明らかにします。著者は、権力者が支配する人びとは制御、規制しなければならない利己的な獣である、という理解に我慢がならないからです。

本書の上巻で言及されるノーベル賞作家ゴールディングの『蠅の王』(新潮文庫)は、著者と同様、私も強く違和感を覚えた文学作品です。無人島に漂着した少年たちの力を合わせた楽園のような暮らしが、最後は仲間割れから殺し合いにまで至る物語で、とても納得できるものではありませんでした。しかし、ここから著者は、実際に同じようなリアルな事例はないかとネットを検索し、僥倖に助けられ、オーストラリアで起こったある事実にたどり着きます。執念です。
それは1966年、厳格なカトリック寄宿舎から逃げ出そうと海に乗り出したものの難破し、行方不明から1年3カ月ぶりにアタ島で発見、救出された13歳から16歳の6人の少年たちの実話です。そこで彼らは、菜園や水溜め、ジムやバトミントン・コート、鶏舎までつくり、いつも火の焚かれた生活を送っていたのです。しかも、見事な共同体として。ほんとうの「蠅の王」の出来事は友情の物語であり、互いに支え合うことで人間は強くなれることを物語っています。でも「蠅の王」ほどには人口に膾炙していないのは、残念なかぎりです。

次に、思想の対比を行います。ホッブスの性悪説とルソーの性善説、わかりやすい二元論です。いまの保守主義、現実主義、進歩主義、理想主義、すべての起源はどちらかに結びつくといいます。ホッブスの『リヴァイアサン』での主張は、人間は自然状態では「万人の万人に対する闘争」に陥り、それを解決するのは独裁者(リヴァイアサン=海の怪獣 ©聖書)だと説きます。かたやルソーは、文明社会は災いであり、人間は本来、善良だが、このような社会制度のせいで邪悪になるのだと説きます。「自然に帰れ」論ですね。また、ホッブスの理論が、人間を理性的で利己的な個人と見做す経済学に、ルソーの理論が、人間は束縛されずにのびのびと成長すべきだという教育分野に大きな影響を与えた、という示唆は、なるほどと思えました。これもまた思想の系統樹です。
さらに進化論に移って、ネアンデルタール人の絶滅理由が、歴史学者ヴァル・ノア・ハラリの「サピエンスがネアンデルタール人に出会ったあとに起きたことは、史上初の、もっとも凄まじい民族浄化作戦だった可能性が高い」説や、地理学者ジャレド・ダイアモンドの「状況証拠は弱いが、殺人者(サピエンス)たちには有罪の判決が下された」説に疑義を唱えます。著者は、「地球最後の氷河期の厳しい気候条件の暮らしを、サピエンスたちはネアンデルタール人よりもうまく乗り切ることができた。なぜなら、彼らより協力する能力が高かったから」だといいます。進化の要因に闘争と競争はあったものの、「協調」の側面を重視します。「おそらく創造主も宇宙の計画も存在しないし、わたしたちは偶然の産物で、数百万年におよぶ目的のない手探りの結果にすぎないと長尺な進化論で理解したとしても、少なくともわたしたちは一人ではない、仲間がいる」という点が、著者の希望の源泉でした。
以下、戦場で銃を撃たない兵士やイースター島の謎、悪名高いスタンフォード監獄実験、ミルグラムの電気ショック実験、ニューヨークで見過ごされたとされる殺人事件など、長年にわたってシニカルな人間観の裏づけ、証明といわれた心理実験や報道が、いかに誤っていたかについて論証し、誤解を解こうと努めます。読んでいて爽快です。ホッとします。

そこから下巻に突入し、権力はいかにして腐敗するか、民主主義のあり方を説きますが、ここは未来の体制、イデオロギーに関わるところであり、著者の主張は明快ですが、やや難しい問題がありそう。ここでは、コモンズ(共有財産)の概念が提出され、それを市場や国家から取り戻さねばならないと説くところは、まさにポスト資本主義というか、共産主義に近いと思われます(「コモン」といえば斎藤幸平著『人新世の資本論』で、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートというマルクス主義学者が『<帝国>』で提起した概念です)。本書では、アラスカ油田の利権を永久基金にして、毎年、全住民に配当金を振り込むという共有財産哲学(正のベーシックインカム?)の事例は、たいへん興味深いものです。
最後にまた、極限状態である戦争や紛争、ネルソン・マンデラの絡む双子の挿話など、人間の善意を証明する事例を挙げていくのですが、そのなかで私は、1914年の独軍と英軍のクリスマス休戦の話に感銘を受けました。第一次世界大戦の最前線において、クリスマスイブに聖歌の応酬からラテン語聖歌の合唱に至り、クリスマス当日にはお互い塹壕から出てきて有刺鉄線を越えて握手を交わし、乏しい食料からクリスマスプレゼント交換を行い、あまつさえヘルメットを代用して英独親善サッカー試合まで楽しんだという実話です。間違いなく、近現代史の奇跡のひとつでしょう。
これは1981年に、BBCドキュメンタリー「Peace in No Man’s Land」でも採り上げられています。いまではYouTubeで経験者のインタビューの視聴が可能です(字幕はありません。残念!)。かつて血で血を争う戦場にいたはずの英国軍のお祖父さんたち、70歳を超えて、みなさんいいお顔をされています。

明らかに脱線しますが、同じYouTubeのお勧めといえば、映画『戦場のメリークリスマス』の主題曲の坂本龍一ライブ(Ryuichi Sakamoto Merry Christmas, Mr Lawrence)があり、久々に聞いた教授のピアノは前半部、鳥肌が立つほど最高でした。坂本さんはYMOのテクノ音楽からエスニック音楽まで、さまざまな音楽に取り組んでいますが、私は映画音楽の仕事がベストだと思います。映画そのものも、『戦場のメリークリスマス』(1983年)は、大島渚さんの監督作品のなかでは『少年』(1969年)の次に好きな映画です。映画『戦場のメリークリスマス』の原作であるローレンス・ヴァン・デルポスト『影の獄にて』(新思索社)は、いまは絶版のようですが、戦争文学としては圧倒的な名作だと思います。


ちなみに坂本さんの娘・美雨さんの歌声をパラリンピック開会式で聴くことができたのも、まさに今月、同時代ならではの幸せでした。オリンピック、パラリンピックが滞りなく開催され、ほんとうに心からよかったと思います。パラはメダル51個! 美雨さんは、宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりの歌」や「鉄道員」(映画『鉄道員』主題歌)もよかったですが、私は1997年に「坂本龍一 featuring Sister M」の名義でリリースされた「The Other Side of Love」での、素直で透明感のある伸びやかな歌唱が好きです。TVドラマ『ストーカー 逃げきれぬ愛』の主題歌で、ドラマ自体はトホホ、でしたが……。

閑話休題。
『Humankind希望の歴史』の最後は、「人生の指針とすべき10のルール」で終わります。まるで、ビジネス自己啓発書の流れのようです。とくに私が参考にしようと思ったのは、ルール3「もっとたくさん質問しよう」です。質問は、お互いが理解し合うための大前提である会話の基本ですね。また、ルール4「共感をおさえ、思いやりの心を育てよう」ですが、共感は時として人を消耗させます。ただ一緒に感情を共有するだけでは、物事は始まりません。人として共感能力は必要だと思いますが、著者は「思いやり」こそが、他者の苦悩を理解し、行動するのに役立つと説きます。他者に対する「思いやり」こそ、未来への希望を促すエネルギーたり得るのです。ルール9「善行を恥じてはならない」は、難しいですね。ルール10「現実主義になろう」は、ここでいう現実主義者はシニカルな態度の対極にあるものです。著者の主張は、「わたしたちは、互いに対して善良でありたいと心の底から思っているのだ」に尽きます。

さて、再び脱線しますが、「希望」ということで気になるのは、エルンスト・ブロッホ著『希望の原理』(白水社)という桎梏な大部の書です。全3巻の分厚い書籍で、なぜか学生のころ、図書館の棚の上から自分を睥睨されているようで、気後れを覚えたものでした。『希望の原理』は、1960年代末の日本よりもさらに激しかったドイツ学生運動のバイブルだったそうです。「私たちは誰なのか、どこから来たのか」と始まる本書は、われわれが将来どういう希望を持って歩くのかということこそ、われわれが何者であるかを理解することだ、と最後に書かれているそうです[未読]。ブロッホはマルクス主義学者であり、ユートピアを実現する手段として暴力を容認する傾向にあると、批判されています。今後、機縁があれば読んでみたいと思います。

■2021年8月22日
『心のレジリエンス』⇒誰しも再起力が必要な時代に

続いて、今月購入した『心のレジリエンス』を早速、読みました。弊誌『PHP』8月号に最相葉月さん(ノンフィクションライター)が寄稿した「自分の弱さを知る」と題するエッセイで紹介されていたので、この機会に読んでおこうと思った次第です。

そもそも、わたしがレジリエンス(Resilience)に関心を持ったのは、シェリル・サンドバーク&アダム・グラント著『OPTION B』(日本経済新聞出版)を読んでからです。2015年、Facebook COOのシェリル・サンドバークに突然訪れた最愛の夫の死、子供とともに周囲の助けを得ながら人生の悲劇にどう向き合うべきか、Facebook上で議論を重ね、その立ち直る過程において、レジリエンス(ここでは再起力)の研究者と一緒に記した書です。この本でレジリエンスという概念の精神医学的、心理学的使われ方を知りました。

印象的だったのは、のちに『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2017 年9月号のインタビューでシェリル・サンドバークが語った、「私たちがレジリエンスを高めるのは、どんな不運に遭遇してもいいように備えるためだと思います。それに、私たちの誰もが、何らかの不運に直面するものです。まさにある意味で、"次善の選択肢(Option B)"を生きているのです」という点でした。

『心のレジリエンス』の話に戻ると、著者のボリス・シリュルニクは、幼年時代に育った現存する土地へ「自分探しの再訪」を試みます。失われた記憶を求めて、正しい歴史、真実を理解するために。
人は晩年になって(晩年でなくても)、自らの過去を美化しがちだと言われます。そうでなければ生きていけない場合もありますが、多くの人にとっては、著者の経験した極限状況(ナチスによるユダヤ人狩りの時代)ほどではないかもしれません。一概には言えませんが、とにかく、本書での年老いた著者の自身の過去を知ることへの挑戦には、敬服しました。自分の過去を都合よく修正するのは、レジリエンスを得るために必要だと、著者は説きます。過去の手痛いダメージから回復するには、ある種の物語が必要です。未来への希望を取り戻すために、と言います。
そうして、功成り名遂げたフランスの精神科医であり、トラウマ研究の権威である著者は、フランスにおけるユダヤ人一斉検挙の夜から逃れることができた当時6歳の自身の幸運を再確認する旅へと出かけたのでした。そのドキュメントが本書です。コロナ禍のいまでは叶わない、でも行くこともないであろうフランス西部、ワインの産地ボルドー田園地帯への旅には、心惹かれます。
著者の生きてきたスタンスは、「過去の痕跡をたどるよりも、熟考するほうが容易だとわかった。つまり、現実と照らし合わせるのとは逆に、熟考すれば感情を制御できる。熟考するのは過去に縛られることではない」という一文に明らかです。学究肌です。さらには、「過去の表象を制御するためには、哲学、文学、宗教あるいは政治などに関与することによって、思い出を変質させ、過去を修正しなければならないのだ」と説きます。しかし、そうしてきた著者は、「今日でも、その願いは叶わない」と述懐します。心の傷跡を理解するのは、かくも困難を極めます。なにしろ、思い出というものは理性では統御しきれない感情が伴うものですから。


終わりに、今回読みながら考えた松下幸之助(創設者)のキーワードは、色眼鏡をつけずに現実の事象をありのままに受け止める「素直な心」、自分の過去にも正しく向き合い、静かに再構築を図る「自己観照」でした。どちらも実践は難しいものですね。