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人生のスクイズ

小学生の頃は野球チームに入っていて、そんなに上手い方でもなかった。


試合に出ても、8番か9番バッターくらいで、監督もそこまで自分のバッティングに期待しているわけでもなかった。

自分がバッターボックスに立ち、サードにランナーがいると、監督は決まってスクイズのサインを出した。

スクイズはつまり、バントのゴロでサードのランナーをホームにいれ、自分はそのままファーストアウトになるという野球では王道のプレーの一つだ。


自分のスクイズはそこそこ、上手かった。

失敗した記憶はほとんどなく、スクイズが成功した後の監督の「良くやった」みたいな顔に自分の存在意義のようなものを確認していた。




だけど、いま気づいたことがある。


「何で俺、スクイズばっかやってんだ?」


って。


あの時、自分は本当にスクイズがしたかったのか?

いや、違う。

打ちたかったよな?

ただのヒットでも三振でも何でもいいけど、思いっきり打ちたかったよな?


そうだ、チームに貢献して満足したふりをしていたんだ。



試合でホームランを打ったことは一度だけあった。

ちゃんと素振りを一週間忘れずに毎日やって迎えた試合の日だった。

何も覚えてないけど、サードを全速力でかけて踏んだホームの感触、走る中でボヤけながらも鮮明に映るママ達の歓声。

あの時は何だか、神様がいる気がしたんだ。

ああ、ちゃんと見てるんだって。


この写真を大人になった今見て思った。

「ああ、自分はまだスクイズばっかやってる」って。

打ちたい気持ちを何かの理由で抑えながら。


自分はいま、社会組織という中の、得体の知れない監督の顔色を伺いながら、スクイズを重ねているんではないか?



もちろん、スクイズで学んだこともある。
スクイズが大切な局面もある。


だけど、もうスクイズは終わりなんだ。



己の道に、監督はいらない。


自分だけのバッターボックスに立とう。

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