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【うちの子とまた遊んであげてねと言う親】


自分はこどもの頃死ぬほど遊んでいた。

遊び過ぎて、新しい遊びやスリルのある遊びを作りだすのが好きだった。

遊び過ぎて、死ぬほど怒られもしてきたし、もしかしたら忘れているだけで本当に1回死んで生き返ったかもしれない。
 
 
小学生の頃転校したこともあって、とにかく何百人ものこどもと日が暮れるまで遊んでいた記憶だけが残っている。
 
 
その中で、友達の家に行くことは多々あった。
スマブラだったり、マリカーだったり、外ではなく中でやる遊びももちろん大好きだった。

おやつを出してくれる家、誰もいない家、夜勤務めのパパさんが1人ずっと寝ている家、家に人を呼ぶのがそもそも禁止な家、姉ちゃんが美人な家、とにかくたくさんの家に言った。
 
 
その中でごくたまーに、その家のお母さんが帰り際に出てきて「今日は来てくれてありがとね、またうちの子と遊んであげてね」と言うことがあった。
 
 
その言葉にこどもながらに、何か良くわからない違和感を感じていた

「うちの子と遊んであげてね」

いまふと考えると、その一言は果たして親が言うべき言葉なのだろうかと思う。
 
 
こどもの自分としては、遊ぶことに「何かをしてあげた」わけでもなく、損得勘定抜きにただ面白いと思ったから全力で遊んだだけだ。
そして、つまらなかったら遊ばない、そんな単純な原理で動いたまでた。

ただその言葉を言われると、なんだかこどもながらにも「うちの子はコミュニケーションも取れないし、遊んでくれる子がいないの、またよろしくね」的な、その子の親の少しの悲観と擁護的な予防線を張るというニュアンスを、無意識に感じ取ってしまう。
 
 
特段、その一言があったからといってその子と遊ばないとか仲間外れにするなんてことは無かったけども、親の過保護はこどもに移るのか、やはり「うちの子と遊んであげてね」という親の子どもは少し受け身な感じで、一緒に遊んでいてもどこか物足りない気がした。
  
 
ただ、いま大人になって考えると、社会の大半はまだこの「また遊んでくださいね」の原理で回ってしまっている。

「またうちで発注をお願いします」「また紹介をお願いします」「またごひいきに」。

これらの言葉は、時に半ば媚びへつらいを含みながら、こども時代の自分が聞いたら強烈に違和感を感じるであろうニュアンスを伴って使われる。
 
 
 
「また遊んでね」が必要な局面はあるし、それが無ければ食っていけない状況ももちろんある。

ただ、これからの10年後、30年後の時代は、もうこの表面上の「また遊んでね」は通用しなくなるのではないだろうか。

なぜなら「こいつと遊びたい」「こいつと純粋に楽しいことがしたい」というモチベーションしか真に残っていかなくなるからだ。

そう、テクノロジーは進化するけども、ますます時代は「こども時代」に戻っている感覚だ。

インスタを始め、ユーチューブやショールーム、VALUだったりレターポットだったり、ほら、時代はやっぱり究極の個人の関心や面白さにどんどんフォーカスが向いて行っている。
 
 
  
 
だから、「また遊んでくださいね」は本当にまた遊ぼうと思った時だけ使うようにしていきたいよね。
 
 
 
 
ということで、ダニエルはみなさんとこれから、本当に楽しい遊び=仕事をしたいと思っています。
 
 
そう、あのこども時代みたいな感覚で。

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