古典インクの化学<図説>
はじめに
今回は、いわゆる『古典インク』に関するお話です。
耐水性、乾くと深みのある色に変化する様子などから人気のある古典インクについて、成分や色が変わる仕組み、取扱の方法など、イラストも交えて解説してみたいと思います。細かい点は多くの先人がすでに解説をしているので探せば色々と情報が出てきますが、僕のような化学系の人間が古典インクを説明したらどうなるかという観点でお楽しみいただければと思います。
章ごとに別記事で書こうかとも思いましたが、散逸しそうなのと、一気に書かないと忘れるのでひとまとめにしました。
『古典インク』なる呼称は通称でなのでインクを性質で分類するには必ずしも適切な表現では無いのですが、ここでは、指し示す対象が分かりやすいよう、最も平易に古典インクと呼びたいと思います。
個人的には、文字が消えては困る実験ノートなどの記載に万年筆を使っていることもあり、耐水性の点で顔料や古典インクやらを好んで使っています。(最近ではデジタル化の波で実験ノート的なもの自体の出番が減りつつありますが、それ以外でも思考に手書きが重要なのは変わらないので、万年筆は変わらず大切な道具です)主に使っているのは顔料インクばかりだったので、古典インクについては、鉄とポリフェノール系の化合物を溶解した液なんだな、という程度の理解で、特に気にしていなかったのですが、たまたま色材の古い文献でIron gall inkの処方を見かけて以来、興味をもって時々使いながら様々な文献を読んでいました。
最近では多くの古典インクが国内外で製造されており、SNSで情報の共有が容易になったこともあって、愛好家をよく見かけるようになりました。この記事を書こうと思ったきっかけでもありますが、愛好家が増えるのと同時に、ペンにとって安全か危険か、といったような議論も見かけるようになったと感じています。といっても議論の内容自体は、以前から言われている話が繰り返し再発見・再発明されている状態で、詳しい方からすれば議論の発生というより再燃という印象が近いのかと思いますが、似たような話の繰り返しになる根底には、インクの性質が他より複雑で、取り扱いに関して理解しづらい部分があるからだろうと思います。
そのような訳で、皆様の助けになればと思い、図説してみてはどうだろうか思い至った訳です。
今回も、表現が冗長になるのを避けるために専門用語は使いますが、適宜補足を入れつつ、専門外の人でも単語の意味がくみ取れるよう配慮したつもりです。前回のフラッシュの話なみに長くなりますが、興味のある部分だけでも見ていただければと思います。
本稿は概論です。各論についてはまた気まぐれに補足するか、あるいはより詳しい方に適宜補足して頂けることを期待しております。引用は自由にして頂いて構いません。
それでは始めましょう。
染料インクと顔料インク
まずは、インク製品の分類について触れておきたいと思います。
インクに限らず、何らかの成分を含む液体の性質を化学的に分類するときには、まず大きな括りとして、「溶液」か「分散液」のどちらかに分類することができます。これは大まかに言えば、ある成分が溶けているか、溶けていないかの違いです。
この分類に従えば、
・水に溶ける色素の「染料」を用いたインクは、化学的には「溶液」。
・水に溶けない色素の「顔料」を分散※させたインクは、化学的には「分散液」。
となります。
※分散とは、溶けなくとも液中で均一になっている状態を指してそう呼びます。細かい粒子状になって液中に浮いていると想像してもらって差し支えありません。
染料と顔料の違いをもう少し細かく見てみましょう。
溶液である染料インクは、溶媒の水分子と染料の分子が均一に混ざり合っており、分子レベルまで拡大しても、局所的に染料だけが集まっているような箇所は見当たらない状態になっています。(図左)
一方、顔料インク、つまり分散液に分類される方は、見かけ上は均一な液体ですが、色素の集合体からなるごく小さな粒子が液中に無数に浮いている状態です。この粒子は、ミクロに見れば、周囲の液(分散媒と呼びます)と明確に識別することができ、例えば電子顕微鏡などで観察すれば、数十から数百ナノメートル程度の「粒子」を観察することができます。(図右)
日常的には、単に水と混ぜ合わせることを『溶く』などと表現しますが(小麦粉を溶く、など)、化学の世界では、『溶けている』と『分散している』は分けて扱います。染料は水溶性なので、筆記後、紙にしっかり染み込んでいても、水をかけると大部分が溶け出します。一方、顔料は水に溶けないので、紙面上で一旦乾燥すると、顔料と紙、あるいは顔料同士が強く引きあい、少々水をかけたくらいではびくともしません。顔料同士の凝集力もかなり強いため、必ずしも紙に浸透していなくとも(例えばガラス板の上)一旦乾燥した顔料の凝集体はそう簡単に溶け出すことはありません。これが顔料の耐水性の由来です。
個人的な実験に基づくと、耐水どころか、エタノールやケトン系溶媒、酸、塩基など、ほとんどのものに溶けない顔料製品もあります。
古典インクは何インク?
さてそれでは古典インクはどういう性質で分類するのが良いでしょうか。
ざっくりと、多くの古典インクを特徴づける成分は、『鉄・タンニン成分・色素』と言えます。
鉄分として用いられるのは、主に塩化鉄や硫酸鉄などの鉄塩です。これはそんなにややこしいことはないのでそのまま覚えてもらえれば良いかと思います。
ちょっとややこしいのが、この鉄分と一緒に加えられる、植物由来の、タンニン成分です。本稿では説明の都合上、ひとまずタンニン類なる呼称を使いますが、この植物由来の用語は、タンニン、タンニン酸、没食子、没食子酸、など非常に多くの言い回しが登場し、総称と固有名詞(中でも化合物名、植物名)などの識別がややこしいためか、相当な頻度で混同されています。ぜひ一度全体像を把握して頂くことをおすすめします。
古典インクに使用されている原料のうち、よく利用されるのは没食子酸とタンニン酸です。本稿ではこれらをまとめて「タンニン類」と呼ぶことにしますが、古典インク的なものを作ろうとした時にタンニンが必ず相手として必要かというとそれも化学的には厳密ではなくて、フェノール性水酸基を持っている化合物であれば鉄イオンの相手になるものが他にもあります。アントシアニンみたいなのも使えなくもないのですが、こういった化合物は不安定で単離できなかったりと難しい点が色々とがあって量産されていないことがほとんどで、市販インクに登場することはほぼ無い概念なので、今回はフェノール系という言い方はあえて避けました。
上図の右側に描いたタンニン酸の分子構造は、一見して複雑な形をしています。化学式が怖い人は泣いてしまうかもしれません。しかしよくよく見てみると、グルコースを中心に没食子酸が10個程度結合しているだけです。それほど複雑ではありませんね。グルコースと没食子酸の時点で泣く人がいたらすみません。頑張ってください。没食子酸を多数連結して束にしたのがタンニン酸とでも覚えておいてもらえれば良いかと思います。
これらは、インクなどを含む色材以外にも、食品添加物、医薬品、洗浄剤など、広く利用されています。これらの物質の原料そのものは現在でも植物(五倍子その他)なのですが、現代的な工業技術で抽出しさらに精製されているので、混じり物の極めて少ない高品質のものが流通しています。
ところで、没食子酸やタンニン酸は、名前に酸とつきますが、これらの溶液は酸としては弱いものです。「古典インクには酸が入っている」と言うときに指している酸というのは普通、タンニン類とは別に添加されている酸のことを指します。
(※)フェノール性水酸基は鉄イオンに配位する時にプロトンを放出するので、条件によっては酸と見なすことは可能です。
これらのタンニン類と鉄分が、黒く耐水性のある筆記線を残してくれる成分であり、他のインクと大きく異なる成分であると言えます。(詳しくは後述)
しかしこの2成分の取り扱いは単純ではなく、単に混ぜただけだと、今の古典インクとは違うものができてしまいます。
黎明期には、鉄塩と植物抽出液(タンニン成分が含まれています)を混ぜて作ったインクが利用されていました。これらは混ぜるとすぐに鉄とタンニン類が化合して不溶性の微粒子が分散した黒い液になります。黒々とした筆記線が書けるのですが、安定性は悪く、長く保存の効くものではありませんでした。分類としては顔料インクの方が近いと思われます。再現している人もいますね(下記動画)。
”Making Iron Gall Ink” by Random Science
こういったものも呼称の上では「古典インク」なのでしょうが、現代の製品としてはこういったものは流通していません。(一般的な文具として製品化するのは至難の業だと思います)
その後、適当な酸を加えることで沈殿が生じくなることが見いだされ、溶液状態が安定的に維持できた透明な鉄液が作られるようになりました。こういったものは筆記直後の視認性を上げるために色素が添加されており、これが現代の我々が知るところの『古典インク』です。他の染料ほどではないにせよかなり長く保存できる程度に安定化されているので、ほぼ染料インクとして扱っても良いでしょう。
言葉選びにかなり苦労していますが、このように、指し示す製品によって成分や状態が異なるので「古典インク」というざっくりした言葉だけでは全ての包括的な分類ができません。古典インクという言葉を使う時は、注意深く使い分けることをお勧めします。(古典インクは顔料なんでしょという言説もたまにみかけるので)
古典インクの色が変化する仕組み
古典インクの一番面白いところである、色が変わっていく性質には、この鉄イオンとタンニン成分の状態が密接に関わっています。
鉄イオンは、その原子が持っている電子の数によって、おもに二価、三価という状態を取りますが、これら二価鉄と三価鉄は、タンニン(没食子酸やタンニン酸)と結合して、「錯体」を作る性質があります。
この錯体の状態によって、水に安定的に溶けたり、筆記後の色や耐水性が決まってきます。
鉄とタンニン類は、鉄の価数によって取りうる錯体の形状が変わります。Krekelらの文献では、三価鉄がフェノール性水酸基とのみ結合した構造が記載されていますが、A. ponceらの最近の分析によれば、カルボキシ基も三価鉄との結合に参加すること、多角錯体を形成することが分かっており、鉄周りの結合角にも矛盾のない単位構造としては上記のようなものと考えられています。
不溶性・青黒色の固体は、この三価鉄とタンニン類の多角錯体の性質ということになります。
ずっと構造式のままだとややこしいので、以降は思い切って略図にしてしまいます。先程の説明はつまり、鉄イオンは最初は二価ですが、三価になるとタンニン類がいっぱいくっつくということです。
硫酸鉄や塩化鉄を水に溶かした直後には、鉄イオンは二価の状態です。しかし水中の溶存酸素などの影響で容易に酸化され、速やかに酸化されていきます。三価鉄は、より多くのタンニンを巻き込んだ大きな塊を作りやすいため、あっという間に液が黒くなり、沈殿を生じます。これが先の、昔の古典インクで起きていることです。しかし安定なインクにするなら、これでは困る訳です。
要は鉄が二価のまま安定でいてくれれば、沈殿も着色もなく溶解状態を維持できる訳ですが、そのために酸が添加されています。酸(や還元剤)があると、鉄が酸化されにくくなったり、タンニン成分が鉄と錯体を形成しにくくなったりするので、長期間、溶液の状態が維持できるようになります。これが、最近の古典インクの組成に近いものです。
これらは液中での話ですが、実際に筆記して水分が揮発していくと、以下のような現象が起こります。
①インク液中では、二価鉄とタンニンは水溶性の錯体を形成
②乾燥が進んで酸素に多く触れると、鉄の酸化が始まり、同時にタンニンとの結合も進む(どちらも酸化反応)
③水分が飛びきると、一気に酸化が進んで三価鉄が増え、より多くのタンニンと結合が形成され、着色と耐水化が進む。
*本職の方向け情報
酸化が進行と同時に複数の鉄-没食子錯体が会合しますが、経時で二価鉄と三価鉄の混合原子価錯体(というか集合体?)が生成する可能性が示唆されています。
強い光吸収が生じるのはIntervalence Charge Transfer(原子価間電荷移動)の影響も考えられ、研究を進めているようです。続報が出たらまた読んでみたいと思います。できればEXAFSやXANESで錯体中の価数が厳密に決まると面白いと思います。
<補足>鉄塩の呼称について
鉄イオンの呼び方について「ニ価、三価」だったり「第一、第二」だったり、異なる表現があってややこしいですね。
金属イオンの酸化状態を表現するときは、その金属が取りうる価数の小さい方から第一、第二と呼ばれます。これらはあくまで順序を示しているだけで実際の原子価を意味しません。実際の鉄の価数を表記する場合の書き方は例えば硫酸鉄(Ⅱ)とか硫酸鉄(III)といった風にローマ字表記が主流で、こちらの方が化合物としては把握しやすい命名法です。(僕が普段、第一や第二という呼称を使うのは、相手と前提情報が共有できている場合のみです)
第一鉄… 二価の鉄(Fe²⁺)
第二鉄… 三価の鉄(Fe³⁺)
今回の文や図中では、間違えないようになるべく価数表記しました。
液体と腐食との関係
近年の主な古典インクは、酸を添加することで沈殿が出にくいようになっていると書きました。酸性の溶液ということでよく話題になるのが金属の腐食です。
酸と言うとなんでも溶かす液体と思われている節があります。しかし注意が必要なのは確かですが、何でもかんでも腐食するという訳ではありません。
せっかくの機会に腐食についても丁寧に押さえておきたいと思います。
まず、「腐食」と言う言葉について。
一般的には、金属の表面が変色、変質、減肉するような過程を総称して腐食と呼びますが、生じている現象としては二つの要素を考える必要があります。
"腐食"の間に起きていること
①金属原子が、金属中に電子を残して陽イオンとして溶出する過程(溶解)
②なんらかの成分によって、金属表面に残った電子が消費される過程
③溶け出した陽イオンに酸素が触れて酸化物(サビ)ができる過程
鉄は、単なる水につけるだけでも僅かにイオン化します(①)。しかし、単なる水の場合は、表面にすぐ酸化膜ができたり、抜けた後の表面近傍の電位勾配で溶出が減速するので、腐食は緩慢です。
ところが、酸(つまり水素イオン)が存在すると、鉄イオンが抜けた後に残る電子を消費してしまうので(②)、常に腐食反応が継続することになります。
腐食反応が継続することで多量の鉄イオンが溶け出すことになり、これらが酸素に触れ、目に見えるほどに成長した酸化物がいわゆるサビです。
酸性溶液で盛んに鉄が溶け、サビを生じるのはこういう反応が同時に進行している訳です。
さらに詳しくは、金属の溶けやすさ以外にも錆び発生を促進する以下のような因子があり、これらが実際の腐食挙動を決めています。
・ pH:基本的に低いほど水素イオン濃度が高い=酸性が強いので、②が促進され、腐食が加速します。これは想像しやすい通り。
・溶存酸素:金属の表面に供給される酸素の量が多い環境ほど、サビ発生速度が増加します。
・電解質:塩類は良好な電解質であるため、これを多く含む水中では、金属の電気化学反応が生じやすくなります。
・塩化物イオン(Cl⁻): 塩化物イオンは還元力があるため、鉄表面を保護している不動態(酸化被膜)を破壊してしまう作用があります。このため表面が露出して腐食が加速されます。(中性の水でも、塩素を含んでいると錆びが速いのはこのため)
・その他:温度など。
通常、鉄の表面は剥き出しではなく、薄く自然酸化膜ができています。この酸化膜は、酸そのものに対して多少は抵抗するのですが、塩素があると、この酸化膜が還元反応で破壊され、溶解が進行して結局サビてしまうのです。
上記は純粋な鉄の話。
より強い保護膜を形成する性質を持った鉄鋼が、いわゆるステンレススチールです。ステンレスにも多数品番はありますが、汎用のものはCr(クロム)が添加されており、表面に耐酸性のあるクロム酸化物皮膜(クロメート膜)が形成されます。このクロメート膜が鉄と周辺環境の物理的な接触を遮断してくれるので、ステンレスは錆びにくい訳です(また、最近では溶けにくいMoやNiを添加した耐酸性を強化したステンレススチールも作られています)。
といっても、やはり塩酸のようにそれなりの量の塩素が存在する環境では無敵ではありません。即座にぶくぶく泡を出して溶解したりはしませんが、変色などを生じる事はあります。
昔ながらの処方を大事にしているメーカーでは、最近の古典インクでも塩酸を使用していますので、鉄系の素材(メッキや装飾部品も含め)に注意が必要なのは事実です。
が、塩酸といっても添加量はそれほど多くありませんし、何より、最近のステンレスペン先では使用できる実例が多いことからも、塩化物イオンを含んでいるからと言って、即座にあらゆるペンに異常を来すものではないことがわかります。
溶出した鉄イオンもまたタンニン成分と結合して表面に薄く保護皮膜を形成しますので、そのまま酸に突っ込んだ時よりは、若干耐食性が得られるということもあるでしょう(これは想像)。
金ペンのみならず最近のステンレススチールはこういった古典インクも扱える素材です。装飾部品の接液に気をつけつつ、ペンの中で液が乾燥・濃縮するほどの長時間放置せず、適度に使って、常に濃度一定の環境にしてあげるくらいの気遣いがあれば、十分に使用可能と思います。
ところで古典インクに添加されるその他の酸としては、防錆剤や金属洗浄材等にも用いられる”有機酸”もあります。名前の通り、有機化合物からなる酸で、クエン酸などが有名ですね。
これらは基本的に酸解離定数が小さく弱い酸であること、また有機基が金属表面に吸着して保護膜的に作用する能力があることなどから、一般的に金属に対しては作用が温和な酸で、通常の万年筆ペン先で十分に扱える範囲のものと言えます。
※水分やわずかな酸にも弱い装飾部品が接液する場合に注意が必要なのは他と同じです
※ちなみに、炭素数が小さい有機酸は腐食性が強く、例えば酢酸やシュウ酸、ギ酸などは鉄に対しても無機酸並の腐食性を示します。しかしこういったものは、臭気などの問題もあるので、あえてインクに使われることは無いでしょう
※なお、上記のさまざまな腐食条件から推測できる通り、高濃度の塩素につけるのはいかなる場合でもダメです。やらなくて良いですが、強い酸性洗剤、特に塩酸を大量に含む洗浄剤は、おそらくステンレスニブでもすぐに変性してしまうでしょう。
また、『純粋な鉄』として、いわゆるGペンなどつけペンに使われている素材には、古典かどうかに関係なく注意が必要です。
万年筆とはそもそも取り扱い方が異なる製品ではあるのですが、『スチール※』『鉄ペン※』という言葉を聞いたときにこちらを想像されるケースもあるようなので、記載をしておきます。
文字通りのスチール(=純粋な鉄)は、最初に言及した通り、単なる水に触れているだけでも錆びていくので、常時接液する構造の万年筆のペン先素材としてはそもそも適しません。
メーカーのHPなどでは万年筆ニブの材質に「スチール」と記載してあることもあるようですが、これはほとんどの場合、ステンレススチールを指しています。(単に鉄系か金系かを区別しているだけの趣旨であり、文字通りのスチール=純粋な鉄、ではありません)
万年筆ニブにおいては「鉄ペン」「白ペン」という呼称が多く出てきますが、最近の万年筆の話であればほとんどの場合、材質としてはステンレススチールのことを指しています。
以上、ステンレススチールか、そもそも腐食されない金(またはその合金)でできているペン先であれば、通常の古典インクは使用が可能です。とはいえ、水分が飛んで煮詰まったり、酸化が進むなどの状態変化を起こすことも考えられるので、メーカーが記載している注意事項を守って、時々洗浄するなどする気遣いは必要です。
古典インクを使うときは、高価・希少なペンや、弱い装飾金属を使っているものはなるべく避け、古典インク専用のステンレスペンなどを用意した方が思い切って楽しめるかと思います。
古典インクを他のインクと混合するとダメなのか?
古典インクは基本的に、他のインクと混合できないと思った方が良いです。
古典インク以外でも、染料同士・顔料同士でダメな組み合わせもありますが、こういった禁忌がどのような原理に基づいているのかにも、本章で触れておきたいと思います。
混ぜて良いか悪いかは、主に染料か顔料の分子構造によって決まる部分が大きいと言えます。よくpHの異なるものは混合してはいけないと言われます。これは正しいのですが、実はpH自体は可否を決める直接的な要因ではありません。
例えば、ブリリアントブルーFCFという色素とクリスタルバイオレットという色素の水溶液は、おのおのほぼ中性に近いですが、これらを混合すると、不溶性の沈殿を生じます。これは、分子同士が(おそらくはクーロン力で)引き合い、凝集してしまうからです。これは液は中性同士なのに凝集してしまうケースで、pHだけが直接の原因ではないことのよい例です。
顔料の場合も考え方は似ています。顔料インクは、顔料の微粒子が水中に細かく分散することで見かけ上均一な液体になっていますが、顔料の粒子同士がくっつかないように工夫がしてあります。例えば分散剤を使って粒子同士が接触しないようにする、あるいはpHを酸性か塩基性に振ってやると微粒子表面のイオンバランスが変化し粒子表面が帯電するので、その電気的な力で粒子同士を反発させて接触しないようにする、などです。特に後者の場合、粒子表面の電荷を中和するような成分が来ると、反発力を失って粒子同士が急速に寄り集まり、凝集し沈殿してしまいます。
さまざまな方の実験を見る限り、万年筆に使われている顔料インクは中性から弱アルカリ性のものが多いようです。この条件では粒子表面は負に帯電しており、このマイナス同士の反発を利用しているものと思われます。このような顔料分散液に、正の電荷をもった鉄イオン(や酸)を混合すると、正電荷が粒子表面の負電荷を中和するため、粒子同士の反発力が失われ、沈殿してしまう訳です。
このようにして生じた凝集体は、微粒子同士が固くくっついているので、攪拌した程度では再分散しません。
古典インクと顔料インクを混ぜると、一瞬で(顔料が)凝集することが多いのは、こういう原理によるものです。
自分で実際に実験してみた例だと、Pelikan 4001ブルーブラック(鉄分を含むインク)と、顔料インク(モンブランパーマネントブルーやプラチナ顔料黒)を混ぜると、即座に沈殿が生じました。酸性云々とは別に、単に鉄イオン(Fe²⁺、硫酸鉄)だけを入れても同じことが起こるので、Fe²⁺自体に、顔料粒子表面の電荷反発力を奪う作用があることが分かります。
これは混ぜるだけの簡単な実験で誰でも試せるものですが、インクを同士をそのまま混ぜると濃すぎて餅のような塊ができてしまい何が起きているのか見にくいので、各々の液を10倍程度に希釈してから混合すると、粒子が凝集していく様子が良く観察できます。
ペンの中で実験したらダメですよ。
古典インクが付着したペンの洗浄方法
洗浄の方法にも触れておきます。洗浄に関しては、古典インクどころかインク全般に限らず、着色汚れ全般に関して研究されており、専門的な図書から一般図書まで多く揃っています。今回はお勧めの図書を一冊、参考文献に入れておきます。
<追記:絶版っぽい・・・・国会図書館へGO・・・>
ものすごく簡単に言えば、金属やミネラル系の汚れ(古典インク)には酸や還元剤、有機固形物汚れ(顔料)にはアルカリが有効です。逆にすると意味がありません。
一般的には、酸は金属イオンやミネラルを溶かす作用があります。またアルカリは油脂汚れを加水分解して水に溶けるようにしたり、有機物の表面から水素を引き抜いて負に帯電させてリフトアップし、かつ戻りにくくしてくれる作用があります。
インクの種類別でフローチャートを作りましたので拡大してみてください。
古典インクに由来する乾燥固形物は鉄-タンニン錯体で、これは酸化生成物なので、酸・塩基というよりは「還元剤」が有効です。身近な成分ではアスコルビン酸(=ビタミンCそのものです)やクエン酸が有効ですが、やはり還元作用の強いアスコルビン酸が最も効果が高いことが分かっています。(サビ汚れに強い家庭用洗剤も、還元剤が配合されています)このアスコルビン酸の洗浄力が、酸・還元のどちらの効果に起因するものなのかは、がりぃさんが詳しく実験を行い明らかにされています。
(ブログ「趣味と物欲」古典ブルーブラックインクの万年筆へのこびりつきを化学的に落とす。)
https://pgary.hatenablog.com/entry/20100302/p1
(同ブログ)アスコルビン酸による古典ブルーブラックの洗浄には、pHよりも還元性の寄与が大きい。
https://pgary.hatenablog.com/entry/20140206/p1
アスコルビン酸洗浄は、今では広く知られておりメーカーもHPに記載していますが、有効性を初めて明示した重要な記事だと思いますので、ぜひ一度読まれることをおすすめします。
また、がりぃさんは同ブログ内において、ずっと以前から、古典インクをさまざまに比較するだけでなく、着色原理の考察、検証、はては古典インクの自作までされていますので、上記のリンク先に限らず、一連のブログ記事は必読です。
なお、ややこしくてすみませんが古典インクの洗浄に関してはアルカリ液は禁忌です。水溶液で試してみれば分かりますが、古典インクにアルカリを入れると一瞬で真っ黒になって沈殿を生じます。これがペンの中で起こると大変ですので。
たとえば顔料インクやアルカリ性の染料インクなどを使った万年筆を、古典インクい入れ替える場合など。洗浄液もよくリンスしておいた方がよいですね。といっても古典インクと顔料インクを切り替えて使うケースが僕以外にどれくらいあるか分かりませんが、できることなら古典インクを使った万年筆はあまり他種類のインクに切り替えず、専用の万年筆にした方が安全かと個人的には思います。
おわりに
古典インクは要するに安全なのか、危険なのか、適当に扱ってもどれくらい大丈夫なのか、という点で、できれば根拠をもってバッサリ断定したいところですが、残念ながらそれは誰にもできません。
安全・危険という概念は、物質に固有の『性質』ではなく、接触する頻度・量などを総合的に加味した『評価』だからです。
例えば食用のはずの醤油も一気飲みすれば危険なものですし、逆に失明の危険があるような水酸化ナトリウム水溶液や、金属を腐食する塩酸、硫酸なども、低濃度では飲むことすらできます。これは人体にとっての話ですが、ペンに対しても考え方は同じです。
こと古典インクに関して言えば、安全かどうかというのは、どのメーカーのどのインクを、どのようなペンで使うかという前提条件を踏まえて初めて判断できるというのが正確なところです。
多くのメーカーが上市している一般的な筆記用インクはいずれも非常に優秀で、思いもよらぬ使い方・保管の仕方をしてしまっても、ユーザーが不利益を被らないように配慮してあります。古典インクは、そういったインク製品に比べると、いくぶん注意点の多いインクですが、幸い、ネット上にはさまざまなペンで古典インクを使ってみたというレビューが多くあります。より深い理解のためには、自分で興味を持って調べるのが一番です。
そういったところまで含めて楽しめるようになると理想的かと思います。
参考文献
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がりぃさんブログ「趣味と物欲」
https://pgary.hatenablog.com/
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