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モルカー、ウマ娘、動物園デート、アンコウ

善く生き、善く殺す。どうも、神山です。

今回は読書感想文ですね。読んだ本はこちら。

ちょうど3/14に旭山動物園に行ったり、もうすぐモルカー最終回だったり、ウマ娘プリティーダービーを楽しく遊んでいたりするなかで、今月の集英社新書の新刊として本書が流れてきたので勢いで買いました。そして、勢いで感想を呟きました。

さらに、感想記事を書いているのが「いま」です。

本書は倫理・倫理学とは何かというところから、動物倫理学について、倫理的実践の例の提示、動物倫理そのものから少し離れた人間中心主義や環境倫理学について、マルクスについて、という流れになっていたかと思います。倫理学や動物倫理学の概要や広がりについての箇所については、知っていることも知らなかったこともあり、対置されたり整理されたり、それぞれが一長一短だったりすることが知れて、「絶対に正しい」というものがないということもわかりました。

一方で、例示の箇所については結論ありきの既定路線的というか、現在「食べない」以外の倫理的な動物や生態系への関与をしている存在を差し置いて、様々な動物使用は基本的に虐待であると指摘されてゆきます。正直、紙幅の関係もあるとは思いますが、考えたり悩んだり、躊躇いながらも正しさを選びとってゆく、というものでなかったのが相容れないなと思いました。

本書に対する直観的な反応は上記ツイートまとめにある通りで、特に気になったのは以下の箇所。

権利は個々の動物に内在するものであり、生態系そのものを価値判断の基準にする全体論は不適切(p.215)

として、この環境思想はシーシェパード的「過激」な環境保護運動に影響を与えている、って書いてたりするわけですが、大学で生態学をある程度学んだ(教科書13,000円だった基礎生態学は単位を落としていますが)身としては、簡単に頷けない…。「権利は個々の動物に内在する」という定義により、倫理学の文脈とか論理から破綻してしまうから、全体論(環境倫理学)が失当だし不適切だ、ということだとは思うけれど…。

この引用部分の直前も人間中心主義から抜けれてないのでは、と思う。

人間の場合はたとえ自らの命を失うとも原則に殉ずるという話もありうる。しかし動物はそのような意志を持ちえないし、擬人化して人間の原則を機械的に適用すべきではない。我々が動物の権利を重視するのはあくまで生きたいという動物の意思を代弁するためで、それぞれの個体で同じように重要な動物の意志が適う場面が少数であるよりも多数であることが望ましい。(p.214)

この文章は大分スリリングである。ここにおける「動物」は抽象的なものでも、複数形でもなく、あくまで個々の動物一体一体を指している(権利は個々の動物に内在する!)。さて、ほんとうに「動物」は個々の生存を続けていくことを選ぶのだろうか。単に「生きたい」ことが「動物」の意志だろうか。

積極的に自殺を選ぶことができることを巡る野﨑まどの小説「バビロン」や、善く生きることが政府ならぬ生府によって規定されている伊藤計劃の小説「ハーモニー」など、ただ生きることを絶対善とすることに一石を投じるような文学作品は枚挙に暇がないだろう。

もしわれわれが動物に人間と同様の権利があると想定・定義するのであれば、ただ生きること=善いこと、という前提は動物を奴隷にすることよりはマシかもしれないが、安直だし、傲慢ではないだろうか。

原典の論文に当たれていないものの、上記のような研究もある。

一部のアンコウなどはオスはメスと皮膚や血管を融合させて精子を供給するだけの外部臓器になることも知られており、このオスの状態を「善く生きている」と言えるのかどうか。

このアンコウの生態は特殊かもしれない、しかし、仮にこのアンコウの生態が「善い」とされるのであれば、単に人間が規定する「長生きする」ことを様々な環境で生きている諸動物に対して当て嵌めてよいものか、疑問である。

こういった話もできるだろう。数えきれないほどの卵を産み、そのうち1%未満だけが成魚として産卵・放精して死ぬことができるという魚などについて、その個々の動物に権利が内在しているという考え方になるのも想像力の限界が訪れてしまうというか、想像できる動物/できない動物という新たな差別を生み出してしまうのではないだろうか。「ある個体が長く生きること」を善としているものの、基本的にあらゆる動物一般は種の存続、出産や産卵が目的であり、そこにおいて個体が1年で死のうが10年で死のうが、目的からすれば(功利主義的の側面からは)関係ないという見方も可能なはずである。

さらに踏み込めば、こと個体の動物のことだけを考えれば、過酷な環境で生きており、外敵に襲われる可能性がある自然界よりも、ぬくぬくと与えられた餌を食べ、なんだか自分を見ている変な色やかたちをしたサルのようなものを眺め、適当に運動し、安楽死に至ることができる動物園にいるほうが幸福かもしれない。殺し殺されが発生する自然界で生きていてほしいというのは、秘境の少数民族にはインターネットや電気が存在しない生活を続けていてほしいと思うこととパラレルではないだろうか。

以前、主催している月末読書会という読書会のなかで扱った「信仰と想像力の哲学」という本の中で、機械と人間と動物について記した箇所がある。

[…]機械における言葉と世界の結びつきについて、直観的な推測が行えるほどのやりとりを積み重ね、推定の基礎となるような文化を作ることができれば、機械は「思考する存在」とみなされうる。これまで「機械」を検討対象にしたが、動物にも同様の議論を当てはめうる。この議論は、時間を積み重ね、そのような思考習慣を解釈者側である人間が文化として創出しさえすれば、機械や動物といった存在が(無理な想像を重ねなくとも)自然に共同体の一員として扱われる可能性を示している。(信仰と想像力の哲学 p.77)

読書会記録記事では、ボーカロイドと絡めた機械サイドについて記したが、動物についても考えることができるだろう。生態系について、つまり動物倫理学ではなく環境倫理学の方面から考える方が、この「共同体の一員として扱う」というものにマッチしそうな気もします。

感想が散逸してきたのでまとめに入りますが、この動物倫理学のうえでは確かに肉食=畜産が悪だったり、動物実験が悪だったりする。筆者は個人の自由な決定の下で、なるべくそういったところから離れ、植物中心に食事をしたり、環境負荷の少ない生活を送るということを選べるし、それは正しさを帯びたことであると考えている。一方で、おそらく我々がPUIPUIモルカーを見てモルカーたちが自由さをもっていることに喜びを覚えたりすることや、ウマ娘が走っていること勝利することをギャンブル抜き※に楽しんでいること、目の前にあるステーキやサラダチキンが動物だったことをふと思い出すことなどが、動物倫理を踏まえた思考として正しさを帯びているのであれば、まずはそれでいいのかなと思いました。
※ギャンブルが悪ということではなく、他者の損得とは関係なくウマ娘たちがレースをしていることが善いということ。

ではでは。


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