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少年少女三つ巴ミステリ地獄変①

コインでも賭けませんか?どうも、神山です。

さて、今回から「涼宮ハルヒの直観」「文学少女対数学少女」「蒼海館の殺人」の話をしていきます。一連の記事は以下の配信に触発されて書いています。この配信でさやわか氏が新本格ミステリと後期クイーン問題についてまとめつつ、「文学少女対数学少女」について語っている(話題としては華文ミステリ、新本格ミステリ、後期クイーン問題系の話、JDCの話なども扱われています)ので有料ですが興味があれば見た方がよいです。

全4回(各作品語り+接続編)のつもりだったものの、(主に引用が)長くなりすぎて第1回の①がこの記事に。全何回になるんだろうか。最終的に全部書きます、みなさんは最終的に全部読みましょう。
※今回の記事は「涼宮ハルヒの直観」未読でもOK!!

メタフィクションとしての「涼宮ハルヒの直観」については、いしじまえいわさんの以下の記事がクリティカルかと思います。僕はミステリ語りに傾けてゆきます。

スタート!!

1.鶴屋さんの挑戦前哨戦:古泉一樹かく語りき①

「涼宮ハルヒの直観」は9年ぶりに発売された新作。2つの短編と1つの中編が収録されているが、本稿はそのうち新作中編である「鶴屋さんの挑戦(以後、『挑戦』)」について記したものである。涼宮ハルヒシリーズは、長編ではSFを中心にやってきた(憂鬱、溜息、消失、陰謀、分裂・驚愕)が、本作はSFではなく本格ミステリを前面に出した作品。これまでも、孤島や雪の山荘でのミステリ短編(孤島症候群・雪山症候群)はあったし、基本的に短編の多くはキョンがハルヒもしくは他の原因による不思議イベントを現実に引き戻すために謎を解くというミステリーの基本的な構造になってはいた。しかし、ここまで「現実世界での本格ミステリ」を目指してはいなかっただろう(作者の趣味のなかにそういった本格ミステリが入っていることは、たとえば「長門有希の100冊」からも読み取れる)。

『挑戦』は作者のミステリ観がそれぞれのキャラクター(主に古泉)を通して開陳されてゆく。たとえば、長門・古泉・そして新キャラの「T」が本格ミステリ談義から物語は始まっている。

曰く「アリバイトリック」とか「不可能犯罪」とか「ホニャララの殺人」とか「ナントカの惨劇」とか「ナニナニの恐怖」とかいうネガティブワードな面々から、果ては「ヨードチンキの瓶」とか「バールストンギャンビット」とか「レッドヘリング」とか「Yのマンドリン」とか「アクロイドのアレ」とかなどの、素人には何のことだかさっぱり解らないジャーゴンが、特に広くもない部室内を飛び交っている。
(谷川流『涼宮ハルヒの直観』角川スニーカー文庫 2020 p.128)

「『シャム双子』には読者への挑戦状がないのは何故?」という話題から、「読者への挑戦状、後期クイーン問題」の話へと発展していく。最終的には「本格ミステリとは何か」という定義論に発展するも、ここで3人の意見は割れる。
古泉は「読者への挑戦状があるような、ゴリゴリのパズラーこそ本格の条件と力説したい」
Tは「(上の古泉発言をうけて)そこまで結論してしまうと、原理主義者のようで、ア・リトル、ガエンジ(肯んじ)しがたいものを感じる」
長門は「アンフェアでない」というような形で表明している。
これらは作者としても狭義でミステリを閉じ込めることはできるが、(SFを代表するような存在である長門が許容される)広義な作品であってもミステリとしたい、と読み取った。考えすぎだろうか。

それら議論について考える前に『挑戦』の概要に触れておこう。

序盤は前述したとおり、長門・古泉・Tのミステリ談義と、キョン・みくるのゆるゆるボードゲームプレイが平行して部室内で行われている(ハルヒは不在)。キョンはみくると遊びながらも、3人のミステリ談義に口を挟むというイメージだ。その後、部室にハルヒがやってきて、SOS団(+1名)が勢揃いしたところに、鶴屋さんからメールが送られてくる。そのメールが小説じみた内容となっており、SOS団(+1名)がこのメールについて読み解いていくというのが、『挑戦』のメインパートである。

メインパートで送られてくるメールは数回に分けて鶴屋さんから送られてくるが、基本的なミステリのように、殺人事件などが起こっているというわけでもなく、何が「問題」なのかというところからを考えなくてはならないもので、このあらすじから考えると、特に序盤のミステリ談義は不要なのではないか?という考えが浮かぶ。キョンが言う通り〈素人には何のことだかさっぱり解らないジャーゴンが、特に広くもない部室内を飛び交っている。〉ではないか、と。

しかし『挑戦』の終盤、チェーホフの銃の話を古泉はする。

「帝政ロシア時代の劇作家アントン・チェーホフが次のような意味のことを言っています。いわく、『物語の序盤に銃が壁に掛けられているシーンがあったとしたら、その銃はいずれ発砲されなくてはならない』。つまり、思わせぶりに登場させた小道具をただの無意味なインテリアとして使用してはならず、もしその小道具が物語に何の関係もないのなら、そもそも登場させるべきではないとする作劇上のルールです。簡単に言ってしまえば『回収されない伏線は張ってはならない』となるでしょうか。物語を創作する上での一種の警句ですね」
(同 p.394)

このことを古泉にいわせること、そして『挑戦』が作者のミステリ観などをキャラクターを通して開陳していることを合わせると、序盤のミステリ談義も「いずれ発砲される銃」であり、不要ではない。ではミステリ談義の内容について考えてゆく。

まずは、『シャム双子の謎』における《読者への挑戦》が付されていないことについて。
以下引用※古泉のセリフだが、読みやすさのためにセリフ前後の「」を外している。又、略称や《》『』の使い分けが一律ではないが、引用ママである。固有名詞についてはできるだけリンクを貼ったので、適宜確認いただきたい。(同 p.137-139)

『シャム双子』に限って、いわゆる『読者への挑戦』が付されていないのは作者クイーンによる意図的なものです。ただし、推理のロジックがアバウトだからではありません。その理由に関しては、北村薫氏によるエラリー・クイーンのパスティーシュ小説、『ニッポン硬貨の謎 エラリー・クイーン最後の事件』に詳しく書いてありますよ
ネタバレしない程度に引用させてもらいましょう。この小説の中の登場人物が以下のように言います。セリフの途中からになって恐縮ですが、
 「そのために、ひとつの逮捕の度にひとつの論理が用意されることになりました。物語は論理の変わり玉となったのです。色の変化が、どこで止まるか、どこまで行くかが興味の中心です。従って、中途に《読者への挑戦》を入れることは、物語の根本精神に反してしまうのです。目次に《挑戦》の文字を置くことは、《それ以前の解決が総て偽りである》と、前もって宣言することになるからです」
続いて、こうとも。
 「『シャム双子』では、真犯人を特定する最後の決め手が、犯人の行動になっています。勿論、論理の手掛かりもあるにはあります。しかし、論理ではない形で最終的な決着が付けられるのです。──だから《読者への挑戦》がなかったわけではない。『シャム双子』は、元々《読者への挑戦》を入れ得ない物語なのです」
非礼を承知で、ごく簡単に言ってしまうと、『犯人特定プロセスにおいて、その効果を最大限に発揮するためには《読者への挑戦》はむしろ不要であり、もっと言えばあってはならないものだった』から、ということになるでしょうか
理解するには最初から『シャム双子の謎』を『国名シリーズの内この作品にだけ読者への挑戦状がないのは何故か』と思考しつつ読み進める必要があります。『ニッポン硬貨の謎』を副読本に使えば、新しい発見を得ることもできるでしょう。この二冊を未読の人がおられましたら、ぜひそのように読んでみて欲しい

ここまでで『シャム双子』は物語の謎の様相が連続的に変化することが物語展開の中心であり、その連続性にブレーキをかけ論理的思考から答えを導出させようとする《読者への挑戦》が作劇上有効ではないことを古泉は指摘する。さらに、(同 p.139-140)

僕は『シャム双子』に挑戦状がない理由は、もう一つあるのではないかと
『シャム』の舞台は山火事によって周囲が包囲された山頂の館です。実に国名シリーズで唯一のクローズドサークルものなんです
クローズドサークルの利点を考えてみましょう。登場人物たちはそこからどこにも行けず、また新たに誰かが入ってくることもできない。つまり犯人が不特定多数にまで拡大することがありません。必然的に容疑者は限定空間の内部にいる人物に制限されるわけです
容疑者が閉鎖された空間内にいる人物に限られるということは、推理の範囲をそれ以上広げなくてもいいということです。『シャム双子』に関して言うと、犯人は確実に脱出不可能状態の館内部にいる人物です。クイーンからすると、簡単すぎて『読者への挑戦』を入れる気にもならなかったのではないかと、僕は睨んでいるんですよ

つまり、古泉は前述の物語展開的に不要(北村薫引用)ということに加えて、独自解釈である「クローズドサークルは雰囲気作りというだけでなく、推理の範囲が拡散しない状況であることから《読者への挑戦》は過剰(クローズドサークルだけで条件提示が十分)」と考えている。

なぜこうまでして古泉に本格ミステリについて語らせるのか。もろちん、谷川先生が作品のボリュームを出すために敢えて過剰にミステリ論を引用し掲載したということは考えられるし、誤植がバズったりもしており、急ぎ仕事だったのではないか?という邪推もできる。一方で、前述した「チェーホフの銃」から考えるに、これから始まるメインパートにこれらは関わってきますよ、という前フリにも見える。

前作までの古泉の役回りは、アニメでホワイトボードやナプキンなどに図示しているシーンを思い出してほしいが、SF的現象をキョンに対して説明するものだった。もろちん、長門やみくるもそういった説明をするが、ただの人間とは異なる用語や禁則事項が入ることによって混乱を招くこともある。古泉だけが、キョン、というよりも読者と同じ地平=現実世界の手つきで、SF的世界観の解説を行う。それらと同じく、順序は転倒しているものの、古泉にこれから始まる物語の解説を行わせていると考えるのに無理はない(そもそもキョンについても読者からすれば信頼できない語り手である)。

古泉のミステリ語りはここで止まらず、更に《読者への挑戦》の存在理由について語っていく。ここからも引用地獄。

引用※同(p.142-143)

探偵役が、犯人が犯人たる条件を五つほど挙げ、そのすべてに該当するのは登場人物のうちただ一人、Aという人物であり、ゆえに犯人はAである、といういわゆるクイーン的な消去法によって犯人が特定されたわけです。しかし[中略]確かに我々読者は、その五つの条件に合致する人物はA以外に存在しないと知っています。ページのどこにもそれ以外の該当者は書かれていないからです。ですが、なぜ探偵役はそのことを知っているんですか?
現場はクローズドサークルではなく、よって登場人物は限定されていない。作中に出てこない第三者の中に、その五つほどの条件に合致する人物が存在するかもしれない、という可能性をどうやって排除できたのか
犯人たり得る条件に該当する不特定多数の人間が、登場人物以外にいないことを、作者でも読者でもない、一介の登場人物に過ぎない小説の中のキャラクターは知り得ないはず

(この古泉が読んだとされる作品、いったい何だろう)

ここで、話し相手であるTが、そして多分これを読んでいる本格ミステリ読者のうち、ミステリ論に興味があるひと、文学少女対数学少女を読んだ方は思い至ることについて言及します。

「フム。それはso-called、後期クイーン問題か」

古泉は続けます。本当にこれは古泉一樹なのでしょうか。作者が乗り移っているのではないか、という気持ちになりますが、続けます。

引用。※同(p.143-145)

氷川透氏の『最後から二番めの真実』において、探偵役でもある作中人物氷川透が次のように説明してくれます。
 「(前略)国名シリーズにおける〈読者への挑戦〉は、江戸川乱歩が言ったような騎士道精神なんかとは、ほとんど関係がない。純粋に、論理的な要請から生まれたものです。早い話、作者は作品に対してメタレヴェルにいるのであり、ということは、どんなとんでもないこともなしうる恣意性を手にしている。でも、その恣意性を行使したらフェアプレイは崩れ去る。だから、その恣意性を禁止する装置──いや、正確に言えば、自分は自分にそれを禁止したぞと宣言する装置が、〈読者への挑戦〉であるわけです」
さらに、
 「(前略)ある手がかりゆえに探偵が、犯人はAだと推理したとします。しかし、それは探偵がそう推理するだろうと先読みした真犯人Bが残したにせの手がかりである──これを論理的に否定する手だては、作品外にしかありえない。しょせん作中人物にすぎない探偵にはないんです。さあ、ここからただちに言えることがあります──作品内世界には、論理的に唯一ありうる犯人、という存在は論理的に言ってありえない。これが、法月さんの、あるいはクイーンの到達した、破壊的な結論です」
 どうでしょう。一読瞭然ではないですか?
読者への挑戦は、実は作者だけを縛るものではありません。それは読者にも作用するんです。法月氏は『読者への挑戦』には読者の『当て推量』、つまり作者の構築した論理的な犯人当てに対し、丁半博打的な読者の直感の介入を禁止する機能があり、『このような相互禁止によって、はじめて閉じた形式体系=自己完結的な謎解きゲーム空間があらわれる』と述べています
要するに、読者が途中でなんとなくこいつが犯人のような気がすると思ったとして、そしてそのキャラが真犯人であったとしても、作者としては読者に負けたとは思わないし痛くも痒くもないよ、ということですね。読者には論理的かつエレガントに真相の究明及び真犯人を指摘することが求められるのです

引用おわり。さて、ついに法月倫太郎にも触れました。上記引用からは外れていますが、

詳細は、この法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術』収録の『初期クイーン論』を参照していただきたいのですが

と、後期クイーン問題語りには必須の文献をキョンに(我々に?)レコメンします。本当に古泉は小説内キャラクターなのでしょうか…。上記引用をまとめると、氷川透は〈読者への挑戦〉について、作者は作品に対してメタレベルから世界の拡大など読者の知らないところから犯人や犯行を導出できるが、それを封じ手とし、フェアプレイであることを約束する為に用いられるものとしている(但し、作中の一登場人物である探偵は同じ位相に存在している真犯人が用意したダミーの真相について、それが真の真相かどうか確定することが不可能である)。
・古泉一樹:論理的かつ過不足なく真相の究明及び真犯人を指摘することが読者に求められているため、読者が直観的に犯人を言い当てても、作者は読者に負けたことにはならない。

氷川透の発言には、読者への挑戦についてだけではなく、後期クイーン問題についての言及(上記カッコ箇所)があり、このあとさらに、後期クイーン問題に対する様々な作家による言及についてもまとめてられてゆく。

更に引用※同(p.146-150)

後期クイーン問題には色々な考え方があるようで、例えば有栖川有栖氏は『江神二郎の洞察』に収録されている短編、『除夜を歩く』にて、作中人物有栖川有栖と江神先輩にこんな会話をさせています。
 「偽の手掛かりで『探偵による完璧な推理が不可能になる』んやったら大変やないですか」
 「どんな情報が隠されたままかもしれない状況にあっては完璧な推理・推断が不可能になる。それは、ミステリの外の世界も同じやろ。というより、小説の内部の情報は有限のものとして描けるから、推理の不可能性はむしろ現実の世界にある。そんな世界で困難に直面することはあるとしても、みんな日常を生きてるし、完璧、無謬は実現されないまま、警察も司法もひとまず機能してるわな。ミステリが、わがこととして抱え込むべき問題やと俺は考えん(後略)」
そこまで深く意識する必要はない、ということでしょう。
石崎幸二氏の『記録の中の殺人』で、奇妙な規則性をもって犯行をおこなう連続殺人犯が出てくるのですが、犯人のプロファイリングに関する文脈で登場するセリフです。
[中略]
ほぼ江神先輩の意見と同等で、プロファイリングという例を出すことで、より解りやすくなっていると思います。いくらフィクションといえど、現実ベースの物語作品ならば、その世界のルールはあくまで現実に即したものになる。当たり前の話ですが、そうでない物語も多々存在するわけですから、このように明示することは決して無意味ではありません
もっと極端な意見を紹介すると、二階堂黎人氏は『論理の聖剣』というコラムの中で、名探偵はどのような特権を有するかという《後期クイーン問題》は、所詮、作家や探偵が怠けることの言い訳にすぎないし、また、名探偵は推理という思索行動を発動させるためのジャンル的装置であるわけだから、そもそも、そんな問題はこの世に存在しない。と、一刀両断に処しています
一風変わったところでは、深水黎一郎氏『大癋見警部の事件簿』のchapter7『テトロドトキシン連続毒殺事件』内で、登場人物の刑事がこう叫びます。
[中略]
さすがに、ここまで来たらジョークの一種ですけどね。この刑事は自分が小説世界の登場人物であることを知っており、ゆえにメタレベルを完全に無視した発言ができるわけですが、逆に言うと、そこまでしないと作品内のキャラクターには、このような発言が許されないわけです
もっとも、後期クイーン問題は数学的な命題である『ゲーデルの不完全性定理』から派生したものなので、哲学的な論考はまだしも、小説の物語構成に援用するのは如何なものかとする意見が存在することも申し添えておきましょう

引用終わり。

抜き出し並べると次のようにまとめられるだろうか。
・有栖川有栖:ミステリの外の世界=現実世界でも往々にして手元にある情報がすべてということはないし、それでも警察や司法は成り立っているのだから、完全無謬な推理は求めるものでもないし、ミステリが背負うものでもない。
・石崎幸二:(有栖川と同様で)プロファイリングをメタから操られるのは現実でも想定されることなのだから、完全なプロファイリングなんてものはない。
・二階堂黎人:後期クイーン問題によって無謬性がなくなるということはなく、名探偵という装置自体が無謬性を担保しているのだから、後期クイーン問題は問題として成立しない。
・深水黎一郎:作中人物が作中外世界からの視点を持っている、というようなふるまいをさせなければ、後期クイーン問題を知覚することができず、あらゆる可能性を検討しているふるまいをさせなければない(というジョーク?)。

後期クイーン問題はロボット(AI)におけるフレーム問題、ある事柄を処理するのにどこまでの範疇を検討すればロボットにはわからない問題、に近いと思ってますが。このあたりは「探偵AIのリアル・ディープラーニング/早坂吝」に任せるとして(ほんとか?)。

めちゃくちゃに引用が多く、しかも複雑。ミステリ論系の大学の講義があれば、一授業中に出される資料と同じでは。僕は受けたことがないですが(北大なのに水産だから)。この情報の出し方、もはや「天帝のはしたなき果実」的な衒学性すらある。ゲーデルの不完全性定理の柄谷行人的解釈のミステリへの援用という話は、別途「文学少女対数学少女」の章でも語ることになると思うので、割愛(最上段のさやわか氏の動画でも語られています)。

何故我々は後期クイーン問題の話をしているのでしょうか。《読者への挑戦》の存在理由についての話だったはずです。古泉がどのようにつなぐのかみてゆきましょう。

以下引用。※同(p.151)

容疑者を登場人物に限りたいのに、現場の状況や舞台背景によってそうすることができない。下手をすれば容疑者は全世界の全人類の誰か、というところまで広がりかねない。さて、どうしましょうか──
『読者への挑戦』が入っていたら、読者は当然、誘導されます。無意識にね。まさか今まで名前も出てこず登場もしていない第三者が犯人だとは、いや、作者がそんなあやふやな人物を犯人にするとは、常識的に考えてありません。では、そう思わせることが作者の狙いなのだとしたら? それも考えにくいですね。物語の枠外にいる人物が犯人などという、そんな変格じみたものならば、逆に読者への挑戦状などは最初からないはずです
キャラクターを限定することで作者である自らを不利にしているのではなく、単純に容疑の拡大を防いでいるわけです。残念ながら諸事情によって名無しの第三者が犯人でないことを完全に排除できなかったので御理解ください、と

後期クイーン問題によって拡散してしまう世界と容疑者候補について、登場人物一覧や「ここまでの物語」までで世界に線を引き、名無しの第三者ではなく、物語上公然の人物が犯人であるというルールの箱庭に閉じ込めることが、《読者への挑戦》の存在理由と古泉は語る。これは先述した「クローズドサークルは推理の範囲が拡散しない状況を作り出す」と同様の理由。つまり、古泉はここで「舞台設定によって世界をある有限の範囲で区切るのがクローズドサークル」であり「作者の介入(挑戦状)によって世界をある有限の範囲で区切るのが《読者への挑戦》」と並行させて語っている。

更に古泉は、作者と同一名の登場人物が《読者への挑戦》を含む物語には必要である、という話を続ける。(p.152)

もう一つ、『読者への挑戦』を含むミステリには、作者と同名の登場人物がいることが望ましい。挑戦は、その名においておこなわれるべきです

尚、涼宮ハルヒシリーズの作者名は「谷川流」であり、SOS団他に該当する名前はない(唯一本名の姓名どちらも明らかではないのはキョンですが…)。それよりも、今回の話では鶴屋さんからメールが届くわけですが、そのメール文面に出てきているの物語の登場人物もまた鶴屋さんである、というところに主眼を置いているのかもしれません。《読者への挑戦》が作家名と同名人物がいる物語で行われた方がよい理由は以下。

挑戦状付き本格ミステリが作者と読者の知的遊戯であるのは間違いありません。そして問題文を作成しているのは当然ながら作者なのですから、『読者への挑戦』は作者の名前でもって為さざるを得ない。しかし、ページの途中で作者が出てきてメタレベルからの意見表明をすると、どうしてもそこで物語への没入感が削がれてしまう。現実に引き戻されてしまいますよね。これが登場人物の名前でなされたらどうでしょう。自然に読み流すことができるのではないですか。作者と同名の探偵役もしくはワトスン役の存在は、現実と物語内現実の間をシームレスに行き交うことを可能にする、もしくはそう錯覚させる効果があるのです。

古泉は物語内現実と現実をなめらかに接続するために《読者への挑戦》が作者名=作中人物名である必要があるということを表明している。

いまわれわれが目にしているこの状況はなんだろうか。古泉一樹は古泉一樹らしさを保ってはいるものの、もっとダイレクトに作者の意識のようなものを反映して話してはいないだろうか。示唆的な発言はこの先にもある。Tと古泉の会話を引用しよう。(p.155)

それに、とTは一呼吸置き、
「一人称と三人称は究極的には同じものだ。一人称はキャラクター視点の叙述形式だが、三人称は作者視点の一人称形式だ。主語を省いているだけである」
「すると一人称は作者、キャラクター、読者の三者による鼎談、三人称は作者と読者との対談だとも言えそうですね」
「むしろ」とTは続ける。
「三人称神視点である文体は、早い話が作者による一人称なのだから、どう叙述しようが自由自在であろうし、人によっては嘘もミクスチャーされようというものであろう」

キョンが一人称視点で語っている(そして、それがセリフであることもある)涼宮ハルヒシリーズにおいて、こういった会話を登場人物にさせることは、大分ハラハラする展開だな、と思う。これは「谷川流」という登場人物がいないために、本名不定状態の「T」やキョンが谷川流の代弁者として存在しており、その仮想敵(対話相手)としての古泉が用意されているということだろうか。

引用の会話を反映するとすれば、ここまでのミステリ談義はやはり本格ミステリ原理主義者的な古泉を仮想敵とした、Tやキョン=作者(信頼できない語り手)との鼎談だったのではないだろうか。(蛇足:更に議論を一足飛びにすると、キョンや古泉よりもさらに高次存在であると考えられる、「この銀河を統括する情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース(早口)」であるところの長門有希はもしかすると、「仮想読者」の位置にいるのかもしれない。)

続く!!!→古泉一樹かく語りき②-メインパートと考察編- へ

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