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認知と判断が違うこと

僕らはそれぞれみている世界が違う。そして物事の決め方も違う。なにを大切にしたいかや、どんなことを主軸に置いているかも違う。そしてその事実はときどき人間の孤独感を強くするだろう。分かり合えないということは切ないことだが、見えている世界が違うから分かり合えない時が多いと納得してしまうこともまた、同時に切ないことだ。分かり合えないこと、その裏にある認知や判断の違い、それを知ってもなお、少しはわかってほしいと思ってしまうこと。そして、それは求めていいのだと思う自分の気持ちと、求めても正確には理解されないという諦めと。この二つの気持ちを同時に抱えながら、あらゆる他者の見え方と感じ方の違いに思いを馳せる。

違うことはわかっているが、違うことが辛くなるときがある、それは共感を求めるとき、日頃気になっていてどうにもならなくて喋りたくなって理解を求めるとき、共感と理解は異なる。しかし、共感であれ、理解であれ、得られれば人は安心する。それがないときの孤絶感に比べれば。

共感とは何か?それは同じような景色を見て、同じような感想を持つことである。もちろん完全に同一ではあり得ないが、完全に同一ではあり得ないからこそ、同じような感想を持つことに深い共鳴感、同調感を覚える。この感覚は、現実の日常的体験に即して述べるならば、人を抱きしめる感覚にとても近いだろう。この抱きしめる感覚は、エーテル(気)とアストラル(念)が融和するということだ。この感覚は強烈ではないにしても安堵と落ち着きを互いにもたらす。この包まれている穏やかな心地よさが共感の効果である。人は共感を求める、それはある種人間の体温を求めるような感覚である。同じであることを喜ぶ感覚だと言っていい。

理解とは何か?それは同じ景色を共有できず、同じ感想を持つことができなくても、対話を通して、自分と他者の差異を知ることである。共感のみに慣れている人には、あまり理解による心地よさはわからないかもしれない。理解による心地よさは同化する心地よさではない。異なること。共同ではなく共異という表現が適切であろうと思う。違う存在が同居して、それぞれ互いの差異をわかっているということ。同化する心地よさではないため、共感のような一体として一つのものを感じるということではない。そうではなく、個別で心地よさをかんじるということである。感覚としては、遊園地のジェットコースターが嫌だし、乗るのは心身ともに多大な負担を感じる人に対して、無理に合わせる必要はない、乗らなくてもいいですよというときに生じる感覚だ。共感をベースで考えれば、ジェットコースターは楽しいし、それを一緒に経験したいという感情だろう。しかしそれはあらゆる人がそうではない。場合によっては死の恐怖を感じる人も存在する。そのような人にこの乗り物を楽しむことはできない。むしろ乗ることは大変辛い経験になる。同じ経験でも感じ方が違うというからこそ、なんでも強制してはならない。共感に巻き込んではいけない。強制しないことで個々人が安心を覚えるような、そういうありかたが理解である。理解は“個別性”が肝となるのだ。

さて、共感と理解を確認したところで、共感と理解どちらも絶した時に起こる感覚は、まさに孤絶感である。単純に一人でいる状態、つまり孤独の状態では、孤絶感など感じようもない。共感や理解は、"自分とは違う存在といるからこそ"立ち現れる感覚である。その意味において、孤絶感は、しんどい感覚である。あまり経験したくないことだ。

認知と判断の話へ戻る。認知も判断もいろんな種類があるだろうが、この種類には人口的に大きく偏りがある。心理学者のユングが述べた心理学的タイプ論は、分類を行っている。そしてMBTIはその比率も詳細に統計を取って調べている。もちろんこのデータ自体は重要な情報であるが、この情報は当然外側から見たものでしかない。内側から、つまりタイプ個々人の生活世界はまた質的に異なる情報だ。

認知や判断が、マイノリティとして生まれるとき、つまり非常に少ない比率の性格を持っている当事者であるとき、共感や理解は得られにくく、孤絶感を経験するだろう。孤絶感。もちろんそれはどんな人でも経験する。しかし、この感覚を多く経験するかどうかは個々のタイプの比率によって変わる。どんなに少ない比率の性格として生まれようが、共感や理解は求めたくなるのが、人の常だ。むしろ、マジョリティが自然に共感や理解に身をさらせているからこそ、マイノリティは孤絶感を強く感じ、それを癒せる場を非常に強く望むだろう。

さて、共感や理解を求めても得られにくい個人はどのようにして、共感や理解を求めるように動くのだろうか。温かな芳香を感じる他者と出会うために、共同として、あるいは共異として落ち着ける空間に浸っているためには。。。そのようなことを考えれば考えるほど、生きていくことには切なさが、裏地のように張り付いていると感じる。

ここで我々は裏地の意味について問わねばならない。分離された存在であることに、切なさを感じるということは、分離されていないことに気づくという道も残されているということに。それは独りの道であるが、孤絶感はない。つまりは瞑想の道であり、修行の道でもある。

切なさの哲学は、分離されず溶け合う哲学へと向かわなければならなくなったのだ。それは人間関係に終止符を打って、独りの道を、孤高の道を貫き仙人となることでは決してないし、人を嫌いになって、どうせ共感も理解もしてもらえないのだからと不貞腐れることでも全くない。そうではなくて、共感や理解という場が自然に形成されるオーラを醸し出すために、独りの道を歩むということなのだ。例えばブッダの教えがある。あれは、独りでただ進む道だと勘違いしている人が非常にたくさんいるが、しかしそうではないのだ。ブッダの教えとは、「独りの道を極めることは日常生活を豊かに送るための手段だ」という教えである。自己は他との相互依存的関係によって成り立つ、そのことを自覚するために瞑想を行なったのだ。このことを知らずに、独りでこもり続けて生きていくのは、切なさに向き合わないことだと思う。そのような生き方もこの時代には選べるだろう。しかしそれは、極端に言えば人間として生まれることの放棄である。人と関わることで我々は必ず切なさを自覚する。この切なさは非常に辛い。ときには死を選んでしまう人もいるだろう。切なさに殺されたのだ。切なさは孤絶を自覚させるものだから。切なさは他との関係のなかで起こる。他がなければ切なさがない。だから、独りで生きていけば切なさは感じなくて済む。こんなに楽な生き方はないのだ。だが、それはやめよう。切なさを体験し続けよう。ここから溶け合う哲学が生まれる。このことについて考えるために我々は切なさという分離について考えてきたのだ。共感や理解は分離が前提である。切なさと向き合う道具である。しかし、共感や理解という道具を横に置いてみよう。そして、溶け合うということについて考えてみよう。ここからの旅は、悲しみではなく、優しさが芽生える旅になる。

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