見出し画像

HSPと「分類すること」「弱さを武器にすること」

最近は自分がわからないから、自分を指し示すような概念を使って安心するというような行動様式が一般的のようだ。僕は以下HSPという概念について考えていくのだが、別にそれを批判したいということで語るわけではない。

HSPについてはもうあまりにもいろんな人がいろんな記事を作っているので今更定義などを振り返ることはやめる。僕はHSPの診断を使うと「強度HSP」と出る。この診断では100点を超えてしまう。
https://hsptest.jp/

だから僕も典型的なHSPだと思うし、小学生の頃から人より明らかにいろんなことに気づいてしまうことには自分自身でも気づいていたので、自分の特殊な気質はいったい何なんだろうとずっと考えていた。2013年くらいかな、そのときにエレイン・アーロン博士の本を知ってそれでHSPという概念を知った。同時にHSSという概念も知った。あー自分はどっちも当てはまるなぁーと思ったのを覚えている。そんでここ数年やたらこのHSPが取り上げられるようになって、現在は分類が、HSPの中にも外向型(HSE)と内向型があって、それでさらにHSSの有無も考慮に入れるということで複雑化している。複雑化はしていないか。原著に忠実になったというほうが正しいかもしれないな。
YouTubeとか見ていると、HSPアドバイザー(ココヨワチャンネル)が出てきたり、HSPのコミュニティ(rasiiku)ができていたりで、わりと盛んだなと感じている。これらの動画を拝見してみると、共感や特性の理解をベースにしている。そこからどう暮らしていくのが適切か、どのような人と関わるのがいいのか、どのような仕事に就けばいいのか、どんな風に考えてしんどくなく生きるのかということがテーマになっている。
そもそもHSP自体がマイノリティなので、このようなチャンネル自体が非常にニッチなチャンネルであるというふうに考えうると思う。

さてこのHSPという概念だが、これは基本的に診断する他者というのが存在しておらず基本的に自己申告制であることに注意が必要である。僕も自分がHSPであるだろうということを自己申告してここに書いているわけであるが、ここに分類するということがどういうことなのかについての思索がなければちょっとおかしな方向へ行く可能性を考えている。

1.偽物か本物か問題

例えば発達障害などの精神科領域の話であれば、診断という医師の考えが媒介される。他者が入ることが必ず必要になるような領域となる。しかしHSPは身体的精神的気質という医療者や心理学の専門家などが介入しうるような概念に対して自己申告という形で世の中に流布している以上、「HSPの理解が正しくないぞ!!」という批判的な考え方が徐々に立ち現れてくる可能性がある。これは容易に憎悪や支配を生みやすい。僕がそんなことを考えていたら案の定、そのようなYouTuberが現れていた。品がないので、ここではあえて紹介しないが、気になる人は調べてみてほしい。そもそも分類とは、人間が観察によって作り出したものである。HSPは医学的診断ではないが、医学的診断も同様である。そこには人間の恣意性が隠れている。どこに線を引くかは神や自然が決めることではない。あくまで人間が勝手に線を引いたものにすぎない。だから偽物や本物を完全に見分けることは原理的にできない。おまけにこのHSPという気質が、心理学者や精神科医の診断能力によって査定されるものではなくて、自己申告するものという現在の社会的雰囲気から鑑みても、この気質の本物偽物を査定するのは分断を生む。HSPという分類は、本来分断を生むためのものではなくて、自己理解や他者理解のツールとして使うものであるはずなのだが。。。

2.固定化される問題

エレイン・アーロン博士はユング派の心理学者である。内向的とか外向的とか本に出てくるけれども、このような概念ももともと心理学者のユングが心理学的タイプ論という性格について書いた本の中で出てくる概念である。ユングは心理学のみならず思想家でもあっただろうと僕は考えているが、ユングの思想の根底には「成熟」というキーワードがあると思う。アーロン博士がユング系列であり、ユングの考えを受け継いでいるとするならば、繊細性という概念を心理学に導入したその根底にある思想は、単純に"分類するだけ"で終わるような心理学概念ではないと思う。分類するとは、型に入れるということだ、型に入れること自体が悪いことはではないが、自分の気質を理解するということは、その型にはまって生きていくこと"ではない"。その気質を抱えながらどう生きていくかを自分で模索するということだ。HSPだからこの仕事はしません、こういう人は苦手だから一切かかわりません。それはそれで自分自身の成熟の機会を奪う危険性を持つ。僕だってHSPの気質が強いから、一切関わりたくない人だってたくさんいるし、したくない仕事もいっぱいある。薬剤師やっていると怒鳴り込んでくる患者さんや理不尽な要求で文句ばかりいう患者さん、たくさんいる。あるいはイライラをまき散らす、嫌な気持ちにさせる言い方をする従業員などもいる。もちろんそういう人は避けたい、関わりたくない。でも今の世の中で暮らす以上それを避けることは自分の成熟にならない。最低限合わせるというという能力も成熟に必要と思う。そこをHSPの気質という理由を盾にして関係を断つのは自ら成熟の機会を奪うことになるだろう。そうすると、分類という思想のもつ固定化作用を露骨に受けてしまって、結局は狭量な人間になってしまうという危険性を孕むことになる。それはあまりいいことだとは思わない。

3.共感の罠問題

この世界は共感が好きだ。僕だって好きだ。自分と同じような考え方をしている人を見つけたりすると、「君も一緒だったのか、仲間だね!!」みたいに思う。そういうことは何度もあったし、そういうことを言ったこともある。当然、人は全く共感できない人とだけずっと一緒に過ごしていたら心が荒んできてしまう。自分と似たような人、近しい人、10言わなくても1言えば伝わる人、そういう人がそばにいてくれることは非常に強い心の支えになるし、そのような存在は絶対に必要だ。それでも、どんなに仲がいい人とでも共感できないことは出てくる。それはその人のことを知れば知るほど出てくる。共感もできないし、ましてやなんでこんな頭のおかしいことをするんだろうと理解すらできない。"理解も共感も絶した他者"は、ふと訪れる。そのとき、その他者を拒絶する態度は違うだろうと思う。しかも理解も共感も絶した他者は、変貌という形式によって出現することが多い。いままで仲良くしていた人と全く違う性質がわかったときに、何か果てしなくその人が遠くにいる気がしたりとか、異世界のエイリアンのように見えてきたりしてしまう。それは、共感できたり理解できたりすることだけで人間とつながることの罠なのだと思う。もちろんHSPという気質を持っていれば、共感や理解が得られにくいことが多いと思うが、共感や理解というところで人とつながりすぎれば、変貌した他者を目前にして余計に深く傷ついてしまって、人と深い関係を築けなくなる危険性がある。人と深い関係を築くことはそのようなびっくりする他者と対面することでもある。「あー、わかるー」だけでつながらないように気を付けたいと思うのだ。このあたりの話は、僕が個人的にHSPのバイブルだと考えている(笑)、哲学者エマニュエルレヴィナス先生の哲学書にその本質が余すところなく書いてあると思う。『全体性と無限』『存在の彼方へ』どちらも講談社学術文庫から出ているから、チャレンジしてほしい。僕もチャレンジしている途中である(やばいほど難しいです)。

さて、、じゃあどうする?

話があっちこっちいってしまうので、そろそろ自分なりの考えを書こう。これはスピリチュアルのような考えになってしまうが、結局なぜHSPという気質を持って生まれたのか。それは魂の成熟の機会なんだと思っている。普通の人よりいろんなことに気づいて些細に思えることでも傷ついてしまうわけで、当然人生においても悩むこととか辛いことも多い。でも辛くていいのかもしれない。つらい経験がないと人は成熟の機会にならないと思っているから。
例えば僕が好きなMr.Childrenの桜井和寿さんは典型的なHSPだろう。高校生大学生の頃に僕は毎日ミスチルを聴いていた。で、10年くらい経って曲を聴くと、この人は繊細性が故に音楽をやっているんだなぁと改めて気づいた。
https://youtu.be/EXxaBXKjl6Q 特にHANABIは繊細性をかなり色濃く出している。と思う。


臆病風に吹かれて 波風が立った世界を
どれだけ愛することができるだろう?
とか
誰もみな問題を抱えている だけど素敵な明日を願っている
とか
考えすぎで言葉に詰まる 自分の不器用さが嫌い
でも妙に器用に立ち振る舞う 自分はそれ以上に嫌い
とか

桜井さん自身が繊細性という気質と真剣に向き合って生きている様が良く感じ取ることができる。おそらくこのような形で、何かを作ったり表現したりするという方法で桜井さんは自分の気質と関わっていっているのだろう。

基本的にポピュラー音楽の歌詞というのは共感をベースにしているが、僕はあえて魂の成熟ということに焦点を置いてみた。この魂の成熟ということで聴いてみてほしいと思う。

さて、僕はMr.Childrenの宣伝をしたいわけではないのでこの辺でやめとくが、僕が言いたかったのは、繊細で生まれてしまったという気質を生かして生きるということを言いたかったのだ。桜井さんは自分の繊細性を生かして、音楽をされている。弱さを武器にするということだ。この気質は悪いことでもないし病気でもないし、世の中には必要だから遺伝的に継承されてきて残っているわけで。そして弱さを武器にすることが「魂の成熟」ということと深くかかわっている。

また具体例を出すが、河合隼雄という非常に有名な心理学者がいる。この素晴らしい心理学者は、スイスのユングという心理学者を日本に紹介して、心理学のみならず、人類学、社会学、哲学、宗教学、医学、教育学、芸術、などなど非常に多様な領域に影響を与えたまさに知の巨人のような人であった。心理学のみならず様々な領域の人に名前がいきわたっているような学者だ。
河合隼雄は自分が非常に繊細で傷つきやすい子どもであったことを自身の自伝的小説『泣き虫ハァちゃん』で告白している。間違いなく河合隼雄もHSP(幼少期はHSC:Highly sensitive child)であったと思う。そんな河合隼雄の非常によく知られたエピソードがある。タクシーに乗ったときの話である。河合隼雄は臨床心理学者としてカウンセリングという治療法を日本に広めた人なので、聴くことが仕事であるが、河合隼雄の人の話を聴いていく雰囲気が、タクシー運転手には伝わってしまうようで、おとなしく座っているのに勝手にタクシー運転手が自分の身の上話、苦労した話を知らない男性に本気で語り始めることが立て続けに起こっていたようだ。「ちょっとこのあたりで、止めますのでもうちょっと、、」とメーターを止めて、迂回してまで語られらこともあったようだから、相当だ。河合隼雄の人間性が見た瞬間に伝わるのであろう。相手は河合隼雄が臨床心理士であることなど知らないはずなのだが、無意識にそのオーラが伝わり、人が勝手に口を開きだす。それは河合隼雄が自分の繊細性を武器にして仕事をしてきたからであろう。自分が弱くて傷つきやすく繊細な人間であったこと、そこに向き合った結果、日本のその手の人で知らない人はいないような偉大な人になった。しかもそれは知らない人にまで雰囲気で伝わるというほど。おそらくこれが魂の成熟ということだと僕は思っている。

ここまで偉大な人の例を出すのは敷居が高いかもしれないが、僕はこのエピソードを知ったときに、「こうなりたい」と思ったし、自分はこうなれる素質を持って生まれているんだという気持ちにもなった。僕は運よく医療従事者(薬剤師)になって、人の話を聞いて考える哲学対話の勉強もしているわけで、魂を成熟させるために人と関わる仕事をしている。そのおかげで少しずつ人に話しかけられやすいオーラを出すことに成功しているのか、道端で声をかけられて道を聞かれたり、患者さんが薬とは関係のないことも少しずつ話してくれるようになってきた。僕はそういう雰囲気を出すような訓練をすることで、弱さを武器にして、魂の成熟の機会と思ってやっている。怒鳴られたり理不尽なことが起きたり、過労になったり、そういうことも多々あるのだが、それも成熟の機会と思ってやるようにだんだんなってきた。ぜひ自分の繊細性や弱さを武器にしてHSPの人は生きていってほしいと思うし、それは上記にあげた3つの落とし穴とは違う視点でHSPという特性を捕えるということだと僕は思っている。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?