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哲学カフェ『現実とは何か?』

哲学カフェ第11回 『現実とは何か?』
2024年3月16日 18時半から20時半
@奉還町4丁目ラウンジカド

前置きの文章

前回の“知る”というテーマの中で「現実感がなくて、現実というのがどういうものなのか考えたい」と話された方がおりました。現実とは自明なもののようでいて考えてみると徐々にその前提が揺らいでいくものかと思います。今目の前にある事物は本当にそこに存在しているのか?感覚で捉えられるのはどれも現実のものだと言えるのか?では考えていることや感じていることもそうなのでしょうか?さらに概念は現実?逆に夢やファンタジーは現実ではないのでしょうか?自分たちの生活からは離れたメディアの報道は本当に現実なのか?現実だと思ってるだけ?自明だと思っていたことを俎上に載せて吟味しながら考えてみましょう。


哲学カフェ後の記録


問い 現実とは何か?(Mさん)
今回は、この問いを出してくださった参加者Mさんに焦点を当てて振り返ってみます。

参加前:現実とは信用に値しないもの、世界の人が作り出した集団幻想としてうつっている。

参加後:現実は個々の感じる世界であり、私が最初に言っていた現実(集団幻覚)は社会のことをさすのだと気づく。私が今活動している“軸的現実”と、“社会的現実”のすり合わせを上手くやりながら、今後も適度に過ごしていければ。


ファシリコメント

現実という言葉にはいろんな語り方がありますが、存在しているのも現実、生きているのも現実、というような根幹に関わるようなことを指す場合もあるし、自分とそれ以外の人で、みているものが違う、つまりは存在しているものを認識しているわけではなくて、認識しているものを現実だとみなしているという主観的な問題として立ち現れているものだという話もあります【現実はそれぞれの主体の構築的現象である】。そしてそれは人によって変わるのみならず、自己がどのような状態かによっても可変的なものである、そしてそれは季節や置かれた環境によっても現実は変わりうるということも示唆される話が出ました【現実は主体内においても可変的な現象である】。現実とは確固たるものでもなく、同一のものでもなく、とてもしなやかな揺らぎのある存在としてあるのかもしれません。とすると、現実はコントロールが利かないものとして我々には現象しているのかもしれませんという話もでました【現実の不可抗力性】。

そして、現実と社会との関わりというテーマも出てきました。“集団幻想”すなわち社会規範のようなものがこの世界には存在しています。それも一つの現実として存在しており、その社会規範のなかで自分の内的な世界をいかに適合させ、一般的な人間としての振る舞いを知っていくかという適応の話もでてきました【現実適応的人間】

それから一部の人に見られた、自分はなぜここに今立って生きているのだろう、存在しているのだろう、それがなぜ成り立っているのだろう、これは幻想なのではないか?これはなんなのだ?というような、すなわち自分がこの場にいてここ存在することそれ自体の壮大な謎、という現実に気づきめまいを起こすという感覚(これは哲学者J.P.サルトルの『嘔吐』を思い起こしますが)も語られました。この感覚は、現実をまざまざと見るがあまり、現実の生活に著しく困難を与えてしまう危険性があるため、多くの人はこの感覚に焦点を当てないようにしているようです。この社会や日常生活を送るためには、直視をしたらやっていけない現実があることも改めて感じました【自己存在という現実の根拠が瓦解するような体験】。

さて。そのような現実の様々な位相があるなかで、Mさんは自分が使っていた“集団幻想”という言葉が、社会規範などを指しているということに気づいたようです。それから自分の内的世界である“軸的現実”とはまた別であるということにも気づいたようです。現実はコントロールができないものなのかもしれないという問いも出ましたが、ファシリとして全体的な話を聞きながら、それでも現実との関わり方は自分である程度主体的に選択できるのではないか?と考えた次第でした。現実という現象の立ち現れ方や、現実との向き合い方に関して何か輪郭が帯びたものがあればファシリとしてはとても嬉しい限りです。

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