暴力について考えたい

世の中には暴力が溢れている。過去に比べたら暴力は圧倒的に減ったという考え方もある。残虐な死刑は減ったし、人間は以前に比べて格段に平等ということになっていると。僕はそれは違うと思っている。暴力の奮い方が変わっただけで、暴力が溢れている事実は何も変わっていない。今の教育はそのほとんどが暴力だし、親子関係も話を聞けば聞くほどおぞましい暴力ばかりだ。


暴力とは何かという問いは人間がコミュニケーションするうえで必要不可欠な思想になると思っている。今のところ僕は、暴力とは「他者の主体性を認めることなく支配する行動のこと」だと考えている。
暴力をふるうことは大変楽である。コミュニケーションをとることや対話をすることは大体において無茶苦茶メンドクサイことだ。壊れないように大事に扱ったとしても壊れてしまいかねないような作業が"対話"だ。精細な精神と身体でなければ難しい。怒鳴ったり、うやむやにしたり、これでいいからこうしてくださいというだけの対応はこちら側にとってほんとうに都合がいいのだ。
さらに、「声がでかい」「身体がでかい」「態度がでかい」というこの3つのでかいがそろうと、暴力を奮う主体として大変振舞いやすい。結局覇気や身体的な強さに圧倒されてしまいやすいものだ。しかしこれは人間の原理としてはあまりに稚拙ではあるまいか。動物ではないのだから、そんな露骨なもので関係性に上下ができていいんだろうか、とたまに思う。人間が人間であるということは暴力という動物的なものについて改めて考えるということではないかという気がしている。
ただし、反暴力であることは避けたい。反暴力は新たな暴力を生むだけだ。暴力を奮うという手段しか持たない主体に対して、その手段を根こそぎ否定するようなあり方は構造的に同一の行動でしかない。


暴力でもなく、反暴力でもないあり方とはいったい何だろうか、それを模索することは世に溢れかえっている暴力を受け流すために必要なことだと思う。そして暴力を奮わない人は、まず間違いなく人から大変信頼される。暴力は受けたくないが、奮ってしまうのが人間だからだ。暴力を奮わないということができる人はそれだけ謙抑的にふるまうことができる成熟した人間であるということだ。

尻切れトンボになって何の結論のなく、問題の提示で終わってしまった。

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