お喋りには辟易するが黙りも問題だ——忘れられないパーティーの話


 「黙り」は〈悪〉かというお話。
 場合により黙りが悪質や悪徳であることも当然あるだろう。緊急の事態で、当該の人物が黙りを決めることで人命が危機に晒されている、それでもなお黙りをつづける……等々。ここではそのような特殊な文脈でのことではなく、またフーコーが論じた「告解」や「白状」のように高尚な話でもなく、ごく一般に性格や気質、また信念としての黙りについて書いてみたい。
 わたし個人はお喋りを好かずあるいはお喋りに嫌悪感すら催すことがある。よくもまあ他人の私的事情をペラペラと……。あるいは「チクリ」というものが嫌いで、黙って「チクる」くらいなら、まずは本人に話す、注意する、諭す。
 いつの間にか〈口が堅い〉こと、要するに他人の秘密などをペラペラとほかの人間に喋らないことを、まるで美徳であるかのように信じてきたところがある。これだけならさして問題ないであろうが、〈自分自身が誤解されている〉時にさえ、要するにウソつきやお喋りにより困った立場におかれたときにでも、ああ面倒だ、鬱陶しい、と黙りを決めてしまうことがある。これについては追々別の稿を公開するつもり。
 この場合の「黙り」は悪徳とまではいかないと思うものの、黙りを決め込む当人の人生にとり困った事態を招くことは経験上間違いない。

ここから先は

9,102字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?