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歌でつながる見えない道

 

 ことばは物事の核心をあぶり出しもすれば、覆いかくしもする。 

 たとえば語としての「絵画」を「絵画」としてフレーミングすることで、あるいは顔料を生の物質ではなく色の「名」により記号化することで豊かになるものと、失われるもの。映し堕されるもの、似て非なるもの。

 オーストラリアの先住民アボリジニのもつ神話的世界観を表すことばに、ドリーミング、ドリームタイムがある。誤解をおそれず簡略に説明すれば、先祖より受け継いだ天地創造の神話をもとに人の織りなす象徴行為をドリーミングといい、ドリーミングが行われる時代をドリームタイムという。

 ドリーミングの過程において実在の地や山、森や川は各々に神話の語りと結びつけられ、歌によって刻印される。この歌のつらなりにより敷設される、目には見えない道がある。グーグルマップに載らないこの道は、白人の入植者たちによりソングラインと名指された。

 ドリームタイムには、もちろんのこと現代も含まれる。きょう現在の世界もまた、アボリジニの神話空間の一部だということになる。この世界から分節化され、孤立化した主体を演じる《このわたし》たちもまた。



 映画『虹蛇と眠る女』は、このアボリジニ神話を背景とするオーストラリア作品だ。行方知れずとなった子供を案じるうち、母親は異様な感情世界へと足を踏み入れていく。虹蛇とはドリームタイムの起点となるすべての母、本作は人の小ささ無力さを暗示するようなロングショットの多用が魅力的な、良質のサスペンス作品に仕上がっている。

 主演はニコール・キッドマン。彼女が出身地であるオーストラリアの作品へ四半世紀ぶりに主演したという意味でも本作は注目された。故郷に錦そのものでもあり、そう考えると刮目に値する全身ぶち当たりの熱演が醸すニュアンスも、やや質の変わったものに見えてくる。

 ミッシング・チルドレン、行方知れずの我が子を捜し求める逆《母をたずねて三千里》を描く良作の公開が、今年初めはなぜか続いた。アルメニア難民主題の『消えた声が、その名を呼ぶ』[当note記事]、中国児童売買の『最愛の子』[当note記事]、そして本作『虹蛇と眠る女』。それにしてもこの邦題、配給会社の都合先立つ安易なタイトリングひしめく昨今、なかなかの良タイトルですね。



 豪州アボリジニのドリームタイムというと、まず想い起こされるのはブルース・チャトウィンの紀行文学『ソングライン』だ。この一編で探求される《歌でつながる見えない道》の奏でる波紋は、外来の移住者である白人家族がもつ畏れにかさなる通奏低音として、映画『虹蛇と眠る女』のなかでもつねに響く。以下今回は余談へと逸れまくる。

 ドリーミング、ドリームタイム、ソングラインといった豪州アボリジニに特有の世界観を描く良書は、チャトウィン『ソングライン』のほかにも様々にあるけれど、個人的に強くお奨めしたいのが《岩波世界の美術》全集の一、『アボリジニ美術』。はじめはすべて似て見える図様の群れを、地域や部族単位へ説得的に腑分けしていく手つきは圧巻だ。

 アボリジニ絵画は、西欧的「絵画」とは異なってドリーミングの道具という性格を未だ色濃く含み持つために、その探求には「エジプト壁画」とか「ギリシア彫刻」を眼差すのとは異なる身振りが要請される。この点で、好著の目立つ《岩波 世界の美術》シリーズ中でもひときわ異彩を放っている。



 それからつい先月に訳書が出た、ケイト・グレンヴィル『闇の河』。オーストラリア大陸への初期植民者とアボリジニとの邂逅と衝突を重厚に描いた本著は、アボリジニ世界観と現代社会との交錯を想い巡らせる上で、今後必携の書となる予感。

 『虹蛇と眠る女』では主人公家族が、土着のアボリジニ神話にも接続する“らしい”なんだかよくわからないものに移住先で侵食される。親も子もなんだかよくわからないままに、ともかく全身で受けとめることを要請される。『闇の河』という邦題(原題は"The Secret River")は無論コンラッド『闇の奥』が意識されているけれど、そのいずれもが侵食者である白人サイドの携行するヨーロッパ型規範ないし論理体系によっては捕捉不能の異世界に、逆侵食される過程を描く。

 そのように考え巡らせたとき想い起こされるのは、前回の一時帰国中に観た映画の一つ、『禁じられた歌声』だ。

   


 『禁じられた歌声』では、イスラム過激派により歌舞やサッカーが禁じられ、石打ち刑まで復活したマリ辺境の村が舞台となる。イスラム描写も一面的でなく、なかでも村の法学者とジハード戦士幹部との議論は凄味があった。ネット上ではこの映画をみた素朴な感想として、イスラム過激派の強圧、暴力に対して憤る類の書き込みを散見するのだけれど、何のことはない、ISやボコ・ハラム、タリバンやアルカイダの行う“ヒドイ”倫理強制・道徳強制は、そのまま西欧列強と日本がかつて被植民地に行った施策のコピーそのものだろう。

 そしてこうした視座をとるなら、『虹蛇と眠る女』の底に覗くテーマは、抑圧者側の呵責感情、および強制のしっぺ返し(への獏とした畏れ)であることが見えてくる。

 ところで西アフリカ内陸、砂漠村周縁の情景が眼福の『禁じられた歌声』、原題は"Timbuktu"という。トンブクトゥ、世界遺産の名がタイトルである意味は深い。歌声禁止のくだりやそこで醸される情感は部分でしかなく、本作全体を象徴しない。国連機関の推進する「世界遺産」認定作業に贖罪意識の反映をぼくは想うのだけれど、『禁じられた歌声』の主役は土地とそこに根づく固有名なしの人間だった。



 泥の町、泥の城で知られるトンブクトゥだが、たとえばアルハンブラ宮殿の外壁を成す煉瓦が赤茶で、フィレンツェ・ドゥオーモの石壁が白黒であることは、町が周辺の自然を素材としてヒトの作る巣であることを想起させる。東京もバンコクも、カビのように張り付いた灰色の巣を引き剥がすならたやすく大地が覗く。國破山河在。

 岩波『アボリジニ美術』では後段で、白人との交接の前段階としてアボリジニとマカッサンの船団との交流があったことが述べられる。マカッサンとはスラウェシ島マカッサルを拠点とする漁民・交易民のことで、豪州大陸北部アーネムランドのアボリジニが描く絵画には、早くから彼らマカッサンとの交流による影響がみられるという。この記述は興味深い。白人視点からみればこのことは、自分たちの文明がアボリジニ美術へ及ぼした破壊的とすら言える影響を、部分的ではあれかなりの程度軽減させる。

 そういえば、スラウェシ島が属するインドネシアを舞台として注目を集めた映画に、『アクト・オブ・キリング』『ルック・オブ・サイレンス』があった。


 今日まで続く人々の凶暴さを描いて注目を集めた両作の監督ジョシュア・オッペンハイマーが、白人であることの意味は大きい。インドネシア人に本作が撮れたか、中国人なら、と想像を進ませた時、そこに上述の侵食関係が決定的に与することは否みようがなく思われる。これは岩波『アボリジニ美術』の著者についても言えることだ。

 というよりも、こうしたことは現代の文化が広範に抱える課題で、現状はどの地域文化も恣意的に、また鑑賞対象として趣味的に生き伸びるだけで、土地土地の世界を十全と支える力はいまこの瞬間も時々刻々と失われてゆきつつある。敢えて言うならそのような趨勢への焦燥をもつことは倫理的態度として明確に正しいし、この正しさを自己憐憫の具とせず他者へと差し向けること、その困難についていまは考えたい。

 『虹蛇と眠る女』では、オーストラリア大陸内陸の山河や渓谷が長回しのロングショットで舐めるように、くり返し写し撮られてゆく。あたかもこの映画の真の主人公がそこに息づく、かのように。





※冒頭画像、二枚目画像は地図。円文様、U字、蛇行する描線のそれぞれが生理感覚的な場所性、痕跡を指示している。
※※『虹蛇と眠る女』 "Strangerland" official page: http://nijihebi.com/

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