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ぼんたんの香りと潮の味

海辺で1時間も夕陽を眺めていたら、体が冷え切ってしまった。芯まで冷えるってこのことだ、と思いながら電車に乗り込んだ。

少しでも早く体をあたためたかったわたしの足は、自然と温泉に向かっていた。この街には、昔ながらの温もりを感じる温泉が立ち並んでいる。

地元の方にとって憩いの場になっているのを感じる佇まいに、よそ者の私が入るのはちょっぴり緊張する。ガラガラと扉を開けると、受付でテレビを眺めていた女性と目が合った。

400円を払ってのれんをくぐる。「田舎のおばあちゃん家みたいな感じで」と宿泊先のスタッフさんが教えてくれた通りの雰囲気が、脱衣所に広がっていた。

服を脱いで、ちょっとひんやりする空間から大浴場に足を踏み入れる瞬間が好きだ。湯気で目の前がぼんやりとしているのも、なんだかいい。誰かがケロリンの黄色い桶を洗い場に置く。ことんという音が響く。なぜだかその響きに懐かしさを感じる。

今回のお目当てはそう、温泉に浮かぶぼんたん。冬の時期、この街の温泉にはぼんたんがあるのだと聞いて、ずっと気になっていた。

少し熱めのお湯に、ゆっくりと足を入れていく。両手にも収まりきらないくらいに大きなぼんたんの実を、ひとつ手にとって鼻に近づける。私が大好きな柑橘の香り。

同時に感じる、独特な鉄の匂い。「阿久根の温泉は塩湯で、結構好みがわかれるんですよね」と言っていたスタッフさんの言葉を思い出した。

顔についた一滴が、口の中に入ってくる。しょっぱくて海のような味。さっき眺めていた海辺の夕陽が、一瞬頭に浮かんで消えた。潮の味がする温泉は初めてで、口の中で塩辛さを感じたことに驚いた。

温まった体で脱衣所に戻ると、「あらお久しぶりね」という会話が聞こえてきた。帰りのタクシーを待つ女性と、これから温泉に入る女性があいさつを交わしていた。

この温泉以外で、2人の時間が交わることはないのだろうな、とふと思う。それでも、温泉で会うたびに「あら〜」と立ち話ができる関係って素敵だ。

さわやかなぼんたんの香りと塩辛いお湯の味が、なぜだか強く記憶に残った1日だった。

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