【評論】夢野久作の短編『怪夢』より、『工場』と『空中』について(小此木記)

主題
夢野久作の短編『怪夢』より、『工場』と『空中』について

副題
夢野久作の作品群に共通する主題と骨子に関する試論

 

・0.はじめに

 文藝誌『灯台』の小此木です。不得意なのですが、本日は評論をやります。
 今回論じるのは、奇書『ドグラ・マグラ』でも有名な夢野久作の、『怪夢』についてです。昭和31年『文学時代』10月号、昭和32年『探偵クラブ』(6月)にて連載された短編の集まりを言います。その中で、『文学時代』に掲載された『工場』と『空中』という最初の二作品を取り上げ、読んで得た気づきを、皆さんと共有、ひいては皆さんからの反応を期待して評論を試みるわけです。とはいえ、『工場』も『空中』も、とても短い作品でありますから、夢野久作のほかの代表的な作品との連関を意識して、これらの作品のもつ興味深い点を探っていきたいと思います。また、これまで夢野久作を読まれていない方も、今回取り扱わせていただくものの分量の短い故(ひいては夢野久作のエッセンスを多分に漏れず含まれているの)ですから、この際に是非お読みすることをお勧め致します。後者の点の方が、恐縮ながらも久作好きを自称する、私個人の願いなのかもしれません。

 本誌『灯台』においては、文学作品の講読・評論と言えば、石田霜舟氏によるものが、その圧倒的な知識量と、大胆でいてかつ鋭い指摘、そして彼特有のユーモアを含んでおり、実に読むに値するというものですが、しかし、このノートでは私も、(言い訳がましくて恐縮ですが)実験的にでもそれに挑戦してみようと思う所存です(また今後は、我らが『灯台』の編者、谷垣氏の講読評論というものも読んでみたいですね)。
 つきましては、この拙論も皆々様の温かい目で読んでいただければ幸いです。

 ※夢野久作の『怪夢』は、青空文庫で読むことが出来ます。https://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/921_21999.html

 また、今回発表者は、新潮社から出ている『死後の恋 夢野久作傑作選』(平成28年)に収録されているものを手にして論じています。

 

1. 作品の梗概
 『工場』、『空中』のあらすじを以下に記す。

『工場』あらまし
 厳かにあかるくなっていく霜朝の鉄工場で、男はある不思議な予感を感じる。狂人と呼ばれた工場長の父が頓死し、男は無経験のまま工場を継承した。その朝は、男が初めて実地作業の指揮をすることになっていた。始業前の機械は、その強大な力を保ったまま、男の命令一下を待ち、静まり返っている。
 男が右手を高く上げると、職工長がうなずき、工場内の機械が一斉に目醒め始める。その工場の機械たちに、人体の一部や生命を奪った経験のないものは一つもなかった。男は、機械の鉄の怒号の中に、引き裂かれ押しつぶされた女工や幼年工、例え大男であっても重態に陥った熟練工たちの悲鳴を感じた。壁や天井にしみ込んだ血や絶叫や冷笑、それだけ職工は熱心で、それだけ機械が真剣なのだったと男に思い知らせた。
 それらすべてを「支配して、相闘わせ、相呪わせる、そうして更なる偉大な鉄の冷笑を創造させる」、それが男の父親の遺思であった。男がこの叫喚の中で微笑しつつ、得意の最高潮に在ったその時である。男の背後で、悲鳴に近い絶叫が背後に起こった。「又誰かやられたか」、男がそう思って振り返った時、「クレエンにつられた太陽色の大坩堝(おお るつぼ)」が、火花をあげながら、男の鼻の先まで迫っていた。
 男は目が眩んだ。次の瞬間、工場のドアまで飛びのいた。数人の「鋳物工がピョコピョコと頭を下げながら」、男のまわりに集まるのを、男は口をぽかんとあけながら見ていた。
 顔の頬や鼻の火傷に、外気の冷たさがしみいるのを感じながら、男は工場全体の物音が一つ一つに嘲笑しているのを感じた。

『空中』あらまし
 T11と番号を打った単葉の偵察機は、二度も搭乗者を行方不明にしながら、その機体は無傷のまま帰ってきたという 「曰く付きのシロモノ」だった。男がそのT11に搭乗し、急上昇を始めるところから物語が始まる。忠告する司令官や、心配そうに見送った同僚のことは見る見るうちに忘却の彼方に消え失せていった。朝の「清新な太陽に濡れ輝く夏の大空」の中で、男は得意であった。
 自身の飛行に関する卓越した能力と経験が、T11の持つ迷信への反感をもたらしたのである。「そんな事で戦争に行けるか、」という気になって、男は急角度に舵を切った。
 層雲の一角を突破し、高度は「二千五百米突」に達する頃に、男はこのT11の静かな「プロペラのうなり」と、「好調なスパークの霊感」に酔いしれるようになった。
 感激の「熱い涙がニジミ」だし、「二三度パチパチと瞬きをした」その時であった。真正面の青空の中から、一台の小さな飛行機が現れた。男は、不思議に思い、目の誤りを疑った。
 男は驚いた。というのも、向こうから来るのは、男の乗機と寸分たがわぬ陸上偵察機であったからだ。正面衝突を避け、男は左舵を取ったが、向かいの機も同じ方向に迂回してまた正面に現れた。「コンナ馬鹿なことが」、と思いつつ今度は右に舵をきると、やはり向かいの機も右に迂回して真正面に向かってくる。その途端に、機体はエア・ポケツに入り、ユラユラと前に傾いた。と同時に、向こうの機体も前に傾いた。その刹那に見えた対機(むこう)のマークはまぎれもなくT11であった。
 真正面から一直線に衝突する瞬間に、男はT11の座席から飛び出した。百米突ほどパラシュートを開かないまま落ちていく中で、男は、同じ姿勢で、パラシュートを開かないまま落ちていく、男そっくりの相手の姿、男そっくりの顔を凝視していた。 

 

2. 分析、久作作品に共通するテーマ、主題について

※(以下の節で参照する夢野久作の文言と、江戸川乱歩の引用の一部に、現在の人権意識の観点からNoteという公に開かれた媒体で使用することが適切ではない箇所があり、勝手ながら一部伏せ字にさせていただきました。著作者人格権を尊重しないものであるというご指摘もあることは百も承知ですが、どうかお見過ごしいただけることをお願い申し上げます。)

  本作『怪夢』より、同じ表題のもとにまとめられている『工場』『空中』の二作品から、久作作品全体に通ずる骨子、共通する本題とその事象を考察する。
 久作作品に総じて語られているものがあるとすれば、それが「狂気」といったものであると断言することは、通説の通りであろう。代表作『ドグラ・マグラ』や、今回取り扱っている『怪夢』に限らず、久作の無数の諸作品の中でも、幾度となく「狂気」、「狂人」、または「キ××イ」といった語が多用されていることは言わずもがな、かの江戸川乱歩は、久作最初の作品である「あやかしの鼓」の一本を読んだだけで、「この作の取柄は、全体に漲っているキ××イめいた味です」と、久作の将来の作品群を見透かし貫いてしまうような指摘をしている。
 本論も、久作作品の主要な題材が「狂気」である、という意見に異論はない。しかし、その理由付けが、「狂気」や「狂人」という言葉や事象が、諸作品の中で何度も用いられているから、というだけでは納得すべきではないと思われる。先述した江戸川乱歩は、「キ××イめいた」と称したが、その「…めいた」ものが何であるか、あるいはそれが久作作品のなかで如何に可能とするのかを分析することが求められるだろう。
 さて、その何が「キ××イめいた」とされるのか。これまでの久作作品を論じた先行研究の中にその手掛かりを探してみると、新潮社から出ている夢野久作傑作選に付け加えられている日下三蔵氏の解説に、彼の文体を「饒舌体」と称されるものがある。この概念に明確な定義は与えられていない。しかし、そうしたものがあるとしたうえで、他の一般的な作者によるものと区別し、久作作品特有の表現的構造を構築し、その特徴を挙げるとするならば、以下の点を列挙することが出来るだろう。
 第一に、文章中の文言の多くに不自然なほどカタカナが入り混じる。第二に、感嘆詞や感動詞、擬声語が執拗なまでに多く用いられる。第三に、会話文や口語体の文章中に、三点リーダー(…)が多分に含まれる、というこの3点にある。これらの表現が複合的に用いられることで、物語の語り手や人物の、一心不乱に、饒舌なまでに言葉があふれ出る様を、あるいは言葉が詰まったり、言葉にならない感嘆の声が飛び出たり、声が裏返ったり、本来我々が聞き馴染む言葉でもそれがまるで外来語のように聞こえる、そんな、正気を欠いたとでもいうような印象を多分に与える特徴を有しているといえよう。以下はその用例である。

 『工場』の場合

〔事例1〕 
 しかも、それ等の一切を支配して、鉄も、血も、肉も、霊魂も、残らず蔑視して、木ッ葉の如く相闘わせ、相呪わせる……そうして更に新しく、偉大な鉄の冷笑を創造させる……それが私の父親の遺志であった。……と同時に私が微笑すべき満足ではなかったか……。
「ナアニ。やって見せる。児戯に類する仕事だ……」
 
〔事例2〕
 私は腕を組んだまま悠々と歩き出した。まだまだこれからドレ位の生霊を、鉄の餌食えじきに投げ出すか知れないと思いつつ……馬鹿馬鹿しいくらい荘厳な全工場の、叫喚きょうかん、大叫喚を耳に慣れさせつつ……残虐を極めた空想を微笑させつつ運んで行く、私の得意の最高潮……。
「ウワッ。タタ大将オッ」
 という悲鳴に近い絶叫が私の背後に起った。
「……又誰かやられたか……」
 と私は瞬間に神経を冴さえかえらせた。そうしておもむろに振り返った私の鼻の先へ、クレエンに釣られた太陽色の大坩堝が、白い火花を一面に鏤ちりばめながらキラキラとゆらめき迫っていた。触れるもののすべてを燃やすべく……。
その顔を見まわしながら私はポカンと口を開あいていた。……額と、頬と、鼻の頭に受けた軽い火傷やけどに、冷たい空気がヒリヒリと沁みるのを感じていた……そうして工場全体の物音が一つ一つに嘲笑しているのを聴いていた……。
「エヘヘヘヘヘヘヘヘ」
「オホホホホホホホホ」
「イヒヒヒヒヒヒヒヒ」
「ハハハハハハハハハ」
「フフフフフフフフフ」
「ゲラゲラゲラゲラゲラ」
「ガラガラガラガラガラ」
「ゴロゴロゴロゴロゴロ」
「……ザマア見やがれ……」
 

『空中』の場合

〔事例1〕
 だが……ソンナような反感も、ヒイヤリと流れかかる層雲の一角を突破して行くうちに、あとかたもなく消え失せて行った。そうして、あとには二千五百米突を示す高度計と、不思議なほど静かなプロペラの唸りと、何ともいえず好調子なスパークの霊感だけが残っていた。
 ……この11機はトテモ素敵だぞ……。
 ……もう三百キロを突破しているのにこの静かさはドウダ……。
 ……おまけにコンナ日にはエア・ポケツもない筈だからナ……。
 ……層雲が無ければここいらで一つ、高等飛行をやって驚かしてくれるんだがナア……。

〔事例2〕
大空のただ中で、空の征服者のみが感じ得る、澄み切った満足をシミジミ味わずにはいられなかった。……真に子供らしい……胸のドキドキする……。
 ……二千五百の高度……。
 ……静かなプロペラのうなり……。
 ……好調子なスパークの霊感……。
 私の眼に、何もかも忘れた熱い涙がニジミ出した。太陽と、蒼空と、雲の間を、ヒトリポッチで飛んで行く感激の涙が……それを押し鎮しずめるべく私は、眼鏡の中で二三度パチパチと瞬きをした。
 ……その瞬間であった……。
 ちょうどプロペラの真正面にピカピカ光っている、大きな鏡のような青空の中から、一台の小さな飛行機があらわれて、ズンズン形を大きくしはじめたのは……。
 
〔事例3〕
 ……と思う間もなくその両翼を、こっちと同時に立て直して向うの機は、真正面から一直線に衝突して来たではないか……。
 
 ……私はスイッチを切った。
 ……ベルトを解いた。
 ……座席から飛び出した。
 ……パラシュートを開かないまま百米突メートルほど落ちて行った。
 私と同じ姿勢で、パラシュートを開かないまま、弾丸のように落下して行く私そっくりの相手の姿……私そっくりの顔を凝視しながら……。
 
 ……はてしもない青空……。
 ……眩しい太陽……。
 ……黄色く光る層雲の海……。

  このように彼の文体は、先に挙げた三点の特徴を有し、以下のような表現に関する論点と読書経験を我々に与える。
 第一のカタカナの入り混じりは、話者の言葉が、その主観的な使用の内にのみ属すことに起因している、それによって、ある種の同言語内の外来性を生み出し、我々との理解の共有を隔てるのである。というのも、このカタカナの濫用が見られるのは主だって会話中においてである。そして、彼ら同士の会話は、あるいは我々に与える印象は、まるで異人種間、異種族間のようなその人物の理解への隔たりを生みだすのである。いうなれば、彼らが私達にもたらす、彼らの非社会性による隔たりである。そうして生まれたその隔たりは、彼らの社会的孤独の印象を浮き彫りにし、彼らを狂気や幻惑の内にとどめるのである。
 第二の感嘆詞、感動詞、擬声語の多用は、それがその人間の理性よりもむしろ、野生性、すなわち非理性性といった、人間の内でより狂気の側にある面を我々に強く示す。この点については、用例の中ではあまり言及することが出来なかった。というのも、『怪夢』におけるこの二作品は他の作品に比べ特段に会話や発話が少ないからである。ほかの久作の作品を言及することが許されるならば、『ドグラ・マグラ』の正木博士や、『犬神博士』の博士などは、この感嘆表現を多用する代表例であるといえよう。その会話においては「フウム」や「フーン」、「ハハア」、「エへへ」といった感嘆詞がこれでもかと会話に用いられている。作品内において、両者はともに世間から「キ××イ博士」と称され、畏怖や軽蔑の対象とされている。こうした小説としてはあまりに不自然ともいえる表現によって、異常者である彼らの息遣いが我々の想像力に働きかけるのである。こうした代表的な久作の長編作品での用例も考慮されれば、この点が補われると思われる。とはいえ、論理が飛躍し、感嘆詞がその人物の「狂気」をもたらすというわけではない。久作作品特有の、狂気の印象を生み出す構造において、非理性性を顕にする一装置にとどめておくのが適切だと考えられる。また付け加えていうならば、正木や犬神博士らの「キ××イ博士」に限らず、久作作品に登場する多くの人物の会話において、たいていがこの感嘆詞表現を多用している。そして、その登場人物の大半が狂人である。言語的でない感嘆の言葉を多用する登場人物のほとんどと、彼らに散見される非理性性との相関は、決して、不可分のものではないはずである。

(この点については少し暴論だったかもしれない。しかし、代表作『ドグラ・マグラ』の中で久作が正木博士という男に語らせていたように、この世は巨大な精神病棟で、社会は狂人たちの解放治療であるという彼の主題が、まさしくこの事態を説明するものであると考えられる。すなわち誰もかれもが狂人であり、誰もかれもその理性が疑われる、こうした久作の世界観が、作品内における感嘆的表現の非理性性という本稿による分析と合致していることを説明してくれるのではないかと私は考えている。とはいえ、やはりこれは暴論だろうか。)

 第三の、三点リーダーの多用についても、これはこれまでの二点に続き、これがある種の感嘆表現の一種であり、社会的孤独をもたらす同言語内外来性の一形態であるといえよう。すなわち、沈黙という非言語的・非同言語的感嘆表現がもたらす非社会性・非理性性の発現を指すのである。
 このように、仮説的ではあるが、久作作品がもつ「キ××イめいた」とされるものが、その「キ××イめく」ために如何なる表現構造に立脚しているかを分析した。仮説的、というのは、上記の久作作品がもつ特徴を理由づける上で、「狂気」というものを「非社会性」あるいは「非理性性」であるという等式のもとに議論を構築したからである。この点については、とくに社会性という点で、いわゆるポスト構造主義的な批判的検討が待ちかまえているかもしれない。しかし、久作論において、そうした思想的見解による解決を待つのではなく、久作の諸作品の内で話を進めていくほかない。そして、本稿における久作の文体表現第二の特徴について触れた際に少しだけ言及した、『ドグラ・マグラ』における「狂人の解放治療」についての久作のアイデアをより詳細に検討した暁には、この「狂気」と「社会性」の関係における彼の思想の立場も明確に見出されることになるだろう。この課題点については、今後、機会と表題を改めて論じさせていただきたい。

 3.久作作品に共通する事象が見出された後の、その骨子の分析
 さて、夢野久作作品に共通する主題の有無が検討され、その表現的特徴や理論が仮説的にでも示されたのちには、諸作品の、より具体的な論点について議論を移行していく必要があるだろう。抽象的な理論の段階から、より具体的な久作作品の構造の分析に入りたい。
 本稿本節では、今回取り上げている『工場』『空中』が共有する久作作品として特異な魅力について論じたいと思う。というのも、前節にて、久作の作品群には、「狂人」について、というより「狂人めいた」ものについてが、その主題、題材に据えられているように見えることを概観した。ここから本稿は、これらの作のどの点が「狂人めいていた」かを明らかにすることで、これらの作品の持つ魅力は、「狂人めいてくる」その過程にあるのではないか、という仮説を提示したいと考えている。
 さて、『工場』においては、主人公である男が、かつての工場の長であり狂人とされていた父から、数多の職工の血と絶叫がしみこんだ工場を継承したところから物語が始まる。男は、始業前の霜朝の森閑とした工場で、工場が破裂するという不吉な予感に苛まれる。偉大な鉄の冷笑を創造するという、父の遺思に、己を満足させるものではないとしつつも、男は残虐を極めた空想を微笑させ、得意な気持ちへとなっていった。その特異の最高潮に達したとき、クレエンにつられた燃える大坩堝が男の顔の先をかすめたのである。あっけにとられていた男を、工場の機械たちが嘲笑するのを男は聞いた場面で、物語の幕が閉じる。
 この作品を正確に読めば、それが単に「狂人」について語られているわけではないことがわかる。また同様に、狂人たる男を中心として話が進むわけではない。中心となっているのは工場の機械であり、それは、人間、超人、狂人、野獣、猛獣、怪獣、巨獣といった、つまり狂人をも含める一切の力や偉大な精神をも屠る、「超自然の巨大な馬力と物理原則が生み出す確信」を持った存在なのである。男は作中の中盤で、自身が支配する機械らが職工を嘲るような騒音の中にいることで得意になっていたが、その得意の最高潮で、自らも機械によって死に直面することになる。運よく生き延びたところで、男は機械らによる一斉の嘲笑、冷笑を聴くこととなる。重要な点は、この結末部分に至り、読者ははじめて、男の父親、狂人扱いされていた父の真意が理解できるようになることである。すなわち、職工たちを引き裂き千切るほど強大な力を持った機械を支配し、「鉄も、血も、肉も、霊魂も、残らず蔑視し、木っ端のごとく相闘わせ、相呪わせる……そうして更に新しく、偉大な鉄の冷笑を創造させる」という遺思のことである。物語の終盤に至るまで男は、大叫喚の中、強大な力によって生命をも葬り去り、嘲る機械を支配する立場にあり、優に浸るかのように見えた。読者がそこに狂気性のようなものを感じることもあったかもしれないが、しかし特筆すべきは、男もまた機械によって死へと追いやられかけ、冷笑せらることになる点である。それが、真に狂人であった父の妄言の意味を知ることによって。
 この作品は、狂気や狂人の物語であるというよりもむしろ、その狂人すらも死に追いやる圧倒的な力を持った存在と、鉄も肉も霊魂も蔑視して、闘いあい、呪いあえという、父の遺思の真意を知るまでの経験を描く、狂人めいた物語なのである。この作品の要点、魅力は、文体や物語が狂気的だというのではなく、狂人の遺思というものが最終場面まで読むことで結実されるという点にある。この、何らかの真意を発見するまでの過程をたどる形式という点を強調するならば、夢野久作が諸作品を通して探偵小説・ミステリー小説作家の枠組みの内で評価され、活躍していたのも納得がいく話である。
 さて、『空中』についても同様に、「狂人めいた」という久作作品を標榜する主題が適用されるものであるかどうか、という点から検討しなければならない。『空中』は『工場』と異なり、「狂人」や「狂気」といった語は用いられていない。幻惑的な現象がこの物語の中心にあるが、それを「狂気」だとか「狂人めいた」物語だ、というには無理が生じるだろう。しかし、かといってこの物語が夢野久作の作品の内で特別であるという印象も受けない。むしろ、そのなんともいえない不気味な雰囲気を常に醸した物語の運びと結末には、久作作品の読者は慣れ親しんだ感を憶えるはずである。というのも、この作品の骨子、構造の点に於いて言えば、この作品も『工場』と同様に、「狂人めいてくる」ような過程を追う種の作品であると考えている。
 『空中』は、曰く付きの陸上偵察機T11に男が登場し、急角度で上昇を始め、大地より離れていく瞬間からこの物語は始まっている。上昇すればするほど、男の上司である司令官や同僚の顔や言葉が「みるみるうちに旧世紀の出来事のように」消えていった。また、彼らに向けていた反感、「そんなことで戦争に行けるか」という反感の気持ちも、高度二千五百米突に近づくうちに同様に消えていった。そうした地上での記憶が徐々に消えていく中で、男はT11による高度の飛行に魅了されていく。その静けさに感嘆し、空の征服者だけが感じることのできる澄み切った満足感を得ていた。何もかも忘れた熱い涙がニジミだし、それを押し鎮めるべくパチパチと瞬きをしたその瞬間、真正面に、大きな鏡のような青空の中から一台の小さな飛行機が現れたのである。
 梗概にも示した通り、この飛行機は不可思議にも、男のものと同じT11というマークが施されていた。衝突は回避できず、男はT11からの脱出を試みる。地上へ落ちていくその最中、男は自分とそっくりの見た目をした男を見つけるという、なんとも不可思議な顛末である。
 ここまでの久作作品群の概説で繰り返し述べてきたように、久作作品に共通するある種の「狂人めいた」特徴は、その物語の内に在るというわけではない。その主題を探るには、その構造に目を向ける必要がある。
 この作品の展開を区分けしようとする場合、以下のようになる。
 まず、離陸から高度二千五百米突に到達するまでの、男は地上で上司や同僚への反感などからT11を急上昇させる段階である。この時は未だ、物語における男の様子や、文章構造に変わったところはない。しかし、高度二千五百米突に到達したところから、徐々に男の様子とその語り手の描写に変化が生じ始める段階に入る。男は地上での記憶がだんだんと薄れていき、語りにおいては、前節で先述した「三点リーダー」による沈黙の感嘆詞が多くみられるようになるのである。以下はその語りの変化の場面である。

 私は得意であった。
 機体の全部に関する精確な検査能力と、天候に対する鋭敏な観察力と、あらゆる危険を突破した経験以外には、何者をも信用しない事にきめている私は、そうした司令官や同僚たちの、迷信じみた心配に対する単純な反感から、思い切ってこうした急角度の上げ舵かじを取ったのであった。……そんな事で戦争に行けるか……という気になって……。
 だが……ソンナような反感も、ヒイヤリと流れかかる層雲の一角を突破して行くうちに、あとかたもなく消え失せて行った。そうして、あとには二千五百米突メートルを示す高度計と、不思議なほど静かなプロペラの唸うなりと、何ともいえず好調子なスパークの霊感だけが残っていた。
 ……この11機はトテモ素敵だぞ……。
 ……もう三百キロを突破しているのにこの静かさはドウダ……。
 ……おまけにコンナ日にはエア・ポケツもない筈だからナ……。
 ……層雲が無ければここいらで一つ、高等飛行をやって驚かしてくれるんだがナア……。

 ここで、「二千五百の高度」、「しずかなプロペラのうなり」、「好調子なスパークの霊感」という本作において特徴的な三つの文言が登場する。これらは改行と三点リーダーによって強調され、後に三回も、物語の転換点で繰り返されることとなる。一度目は、男が高度の飛行にえもいわれぬ満足を感じた時である。二度目はその高度の飛行への満足と感動に涙があふれ、瞬いた時から目前に不自然な飛行機を捉えたときである。三度目は、その不思議な陸上偵察機と衝突の危機を感じ、緊張が走るその直前の時である。
 上記の「二千五百の高度」、「しずかなプロペラのうなり」、「好調子なスパークの霊感」という三つの文言は、三点リーダー×2が、その前後を挟むように付け加えられ、改行の連続により、それぞれの場面、物語の展開を区切るのである。そして、さらに特筆すべきは、それが原稿用紙や我々の文庫の紙面上においても同様に、物語というものを視覚的に、空間的にも区切ってしまうのである。
 これはある種、詩の形式に近いのかもしれない。読者はその読書経験において、音や呼吸を意識させられるのである。物語上のT11の高度と比例するように、久作の原稿用紙の文字の濃度は、三点リーダーと改行によって薄められていくのである。それはまるで、T11が青空を目指し、だんだんと空気が薄れ、地上の記憶も失われていく、そんな言葉にならない男の感覚と、我々の読書経験が同期していくようである。そして結末、対機のT11から自分そっくりの男が落ちるのを凝視しながら、感動に涙したあの大空、太陽、層雲の海の中を落ちていく段階においては、もはや久作の文章の中に、三点リーダーを持たない文の方が見当らない程すでに文章が崩壊しているのである。空を掴む、雲の中、あたり一面銀世界、そんな物語の展開と合致するように、その文章が、三点リーダーによる沈黙、その非言語的な言語によって構成される、非常に不安定な文字列となり、我々読者を引き込むのである。 
 この点をもって、私はこの『空中』という作が、久作作品の一つとしてその魅力を生み出していると考えている。つまり、その読者の経験に訴えかけ力であり、久作作品における読者の経験とは、崩壊への過程を指すといえよう。
 この『空中』で得た気づきを、『工場』の際に用いた『狂人めいてくる』過程と同一であるかと言えば、少し難しいものがあるかもしれない。『工場』(ほかに久作の代表作でいえば『瓶詰地獄』など)の場合に、狂人が有していた真実が明らかになっていく過程に要点があるとすれば、『空中』はその真実や結末が狂人の手元にあったものでもない、また、それが明らかになること自体に効力や意味はない、だから同じ主題や構造とはなかなかいいがたいものである。しかし、正常であったもの、それまで我々が表面的には知っていて、かつその真意を知らずに置かれていたものが、崩壊していく過程の経験こそ、これらの作品に共通する構造であり魅力であるとまで言えば、議論に決着をつけることはできるかもしれない。しかしそれを、無理にでも「狂人めいた」というようなところまで、歪める必要はないと思っている。
 以上を本稿の結論としたい。夢野久作と言えば「狂人」、「キ××イ」といった印象論を見直すことを試みると、表現的な段階から彼の手法の斬新さが明らかとなることを見出す。そしてここから、もう少し具体的な諸作品に当てはめたうえで、何か共通する骨子を見出そうとした本稿の試みは、それが久作作品が読者に与える経験的なもの、すなわち「過程」であると結論づけた。

 

4.むすびに
 本稿の前半部分でも言及させていただいた日下三蔵氏によれば、初めて久作作品に触れる読者の方々には、(あまりに有名な代表作である)『ドグラ・マグラ』を最初に読むのはお勧めできない、という。それはかの作品が有する探偵小説としての構造の難解さもさることながら、より問題的なのは、夢野久作の「饒舌体」ともいえる彼独特の文体に読者が面食らって、最後まで読み終えることをあきらめてしまうことにあるという。そして、それを回避するための対策方法は、久作の短編を一冊よんでおけばいい、とのことである。久作特有の文体に慣れ親しむために、である。
 私は、『ドグラ・マグラ』から久作作品の門戸を開いた人間であるが、この氏の考えにはまったく同意している。そしてもしも私が、恐縮ながら人に夢野久作の作品を勧める機会があるとすれば、やはり短編から進めるだろう。そのもしもに際して、氏の言うように、読者が夢野久作という作家の文体に慣れるという事が、具体的には何を意味しているのかという疑問について、すこしでも明らかにしたく思い、今回は評論を行った。またこれとは別に、一般的に夢野久作の作品と言えば「キ××イ」だ「狂気」だ「狂人」だという印象論が多く見受けられる、これが実際のところどこまで正確な指摘であるといえるのか、この評論を書くに際して、そうした根本のところから考え直すことが出来ればと考えた次第である。今回の評論でいえば、「狂人」というものを直接扱っているわけではない『空中』という作が、以下に久作作品の骨子を有しているのかを論じた箇所は、自分をこれまで以上に久作好きにさせたような、勝手な感を憶えている。
 本稿全体の結論は、本稿三節の終わりに示したものとなっているが、正直な処、あまりこの試みに納得できる成果を私自身が見出していない。一般性を有した理論を構築することが学術的な評論に求められているとして、今回私は久作の諸作品から抽象によりそれを得ようと試みた、しかし、やはり、これは無理のある話なのである。無理に、というのも、一般的な言説を構築するために、久作作品とは〇〇だ、と言ってまとめようとすること自体に、私自身があまり納得していないものがあるのだ。そうした点から、本稿冒頭の、夢野久作と言えば「狂人」についてだ、というような印象論に立ち向かおうとした背景を有していたはずなのである。
 やはり評論は難しい。評論の問いの立て方から、今後は見直したいと思う。

 
小此木清子 令和六年度四月

 

 

 

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