見出し画像

〈恐怖の手触り〉の正体とは?

足元のグラグラ感。
不安定さ、ともいえる。頼りなさともいえるか。
つまりそれが、僕にとっての恐怖の手触りである。


僕がこれまで書いた、
というか聞いた話には大きなオチというか、

「で、結局どうなったの? 何だったの?」

というところまで描かれていないことも多くある。
もちろん、

「何の因果でこんなひどい目にあったのかわからない」

という話を多く聞いたので、
自然とそういう形になってしまったのだけれど。


そう。
因果がわからないこと。
原因がわからないこと。
正体がわからないこと。
そこに、恐怖の手触りの大きなカギがあるのだと思う。
例えば暗闇がそうだ。
そこに何が潜んでいるのかわからない。
そこに人間が、
生物として極めて原初的な恐怖を感じるように。
アポ先でクライアントがずっと沈黙していると不安になり、
間を埋めようとこっちから必死で喋ってしまうように。
話の通じない人に対し、僕は恐怖感を覚える。

〈わからない〉ということは、怖い。
人間は本能的に、この〈わからなさ〉を遠ざけようとする。


ホラー映画だってそうだ。
序盤、90分尺では30分くらいまで。主人公を襲う怪物。
怪物の正体はわからない。そこは怖い。
 
そして中盤、90分尺では1時間くらいまで。
怪物の正体と、その動機やら目的やら弱点やらが判明する。
と、うそのように怖くなくなる。

(※もちろん例外もある。そこを打破しようと工夫している脚本もあれば、〈わからなさ〉とはまったく異なる次元の絶望的な恐怖を演出している作品も多くある。例えば『女神の継承』『ジョニーは戦争へ行った』などは絶望感を巧みにコントロールした実に高等な怖がらせ方だ。)
 

ゆえに『世にも奇妙な物語』や、
『ほんとにあった怖い話』のような、
10分くらいの短編オムニバスホラーの方が圧倒的に怖がらせやすい。
なぜなら、
10分程度の尺なら怪物(的な人間も含む)の正体・動機・目的などに触れずとも、
最後まで突っ走ってゆけるからだ。

「?」で終わる、消化不良。
モヤモヤが残る。だから怖くなる。
つまり「?」で終わることがメリットとして、
かつ短編としての役割・目的を果たすため機能している。


だから逆に言えば、
「何をしたいかわかった」
「正体がわかった」
「なぜか理由がわかった」
を重ねてゆけばゆくほどにコトの輪郭や質量・奥行きが明確になり、
ロジックが立ち、次第に怖くなくなってゆくわけだ。


これはひとつの結論になってしまうが、
冒頭で触れた通り〈恐怖の手触り〉とはつまり、
〈手触りの無さ〉なのではないだろうか。
いささか禅問答めいた解答になってしまうけれど。

これはなにも怪談に限った話ではない。
仕事だってそうだ。人生だってそうだ。
先がわからないから怖い。未来が不透明だから怖い。
入社一日目、ワクワク感より不安感が強いのは、
まだその職場について何もわかっていないからだ。

だから人は、日々いっしょうけんめいに、
この〈わからない〉と戦い続けなければならない。
そして〈わかった!〉を目指し歩み続けてゆく。
これはもはや人類に課せられた使命と言っても過言ではないし、
ただ一個の生物としても、
わからなさを遠ざけるようプログラムされ、
進化し続けているのだろう。
<つづく>



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?