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東京生まれの憂鬱

シティってなんだろう。
ここ最近はシティガールにシティボーイ、シティポップにシティーロック。シティカルチャーとやらをよく目にする。
雑誌では特集を組まれてるし、シティガール的生き方を目指す人もいる。

私は生まれも育ちも東京だ。大学入学を機に離れてしまってからは「出身は東京なんです」と告げると、「シティガールだねぇ」と言われる。でもおそらく、私はいわゆる "シティガール" とはかけ離れている。
おしゃれに生活したことなんて一度もないし。練馬のマンションでインド綿のベットカバーの上にゴロゴロしながら、ずっと本読んでただけ。

「出身は東京なんです」と告げるとき、私は少し気恥ずかしさを感じる。東京で育ったことに対するコンプレックスがあるから。

私は方言をもたない。まぁ、関東弁なんだけど。標準語という大抵の日本人に通じるらしい言葉を話す。西に越してきてから私の喋り方は明らかに異質だ。テンポもリズムも違う。
話す相手は私に合わせて標準語のように話してくれたりする。でも、電話で地元の人と話し始めると突然、生き生きと言葉が溢れ出す。言語と人格はセットだ。私は誰に対してもいっぺん通りの人格でしか接することができない。

泉まくらが『東京近郊路線図』という曲の中で、東京のことを「いい感じに許される街」と歌っている。私はこれが真に東京を表す言葉のように思う。ほっといてくれる、許してくれる、それが東京という町なのだ。
人も物も多い故に、かまってもらえない。その他大勢という匿名性のもとに生活させてもらえる。
私は集団に全然馴染めなかったので、おそらく東京という土地に生まれていなければ、完全に異質として扱われて、すごく辛かったと思う。そりゃあ、ちょろっと仲間外れにされたことはあったし、中学の卒業アルバム見たら "将来有名になりそうな人ランキング" に多分悪い意味で第3位にランクインしてたけど、それでも、東京という街にいる限り、そこまで取り糺されることもなかった。激しい人格否定や、その公正に身を置いたことはない。
だから、田舎で本当に本当に辛い思いをした人に一種の羨ましさのようなものを感じる、失礼な話しだけれど。
あるじゃないですか、地方で異端児扱いされて、辛い思いをして、やっとの思いで上京して居場所を見つける、みたいな。あれがとても羨ましい。私はなんか、自然と気づいたら居場所見つけられちゃってた。反骨精神を持って "東京" という理想郷に憧れることに憧れてる。

そういったコンプレックスもあって、東京から出たのかもしれない。最近、そのことに気づいた。
東京以外の生活も楽しい。少し異端児ぶれるし、私と同じように大規模都市から小規模都市に移住した人と話すのも楽しい。
そういう人と話していて出た結論は、東京という理想郷は、結局そこに生まれた人間じゃ無くて、そこに理想を見出した人がその理想を具現化して作ってくれてるんだよね、っていうことだ。東京は理想郷じゃなきゃって思った人がどんどん東京を楽しい街にしてる。東京での生活ってきっとこんなにお洒落で綺麗なはずだと思った人がシティガール。
だからね、私は全然シティガールじゃないんですよ。好きなごはんは天津飯で、辛くなると川を見にいっちゃうようなへなちょこガールで、今は京都で嫋やかなちょっと物憂いガールを目指してます。

もし気に入ってくださって、気が向いたら、活動の糧になりますのでよろしくお願いします。