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[未発表原稿]直感が揺るがされるのは楽しい

『人生の土台となる読書』用に書いたけれど使わなかった原稿です。三浦俊彦が紹介する、直感に反するパラドックスの話がすごく好きなんですよね。

直感的には間違っている感じがするけど、実は論理的に正しい、という話を読むのが好きだ。
そういう話を知っておくと、
「あ、普通の人はこれ間違えちゃうんだよね。人間の直感ってわりと当てにならないからさー。僕は詳しいから間違えないけど。へへっ」
という優越感に浸ることができるという、人間の小ささがバレるような、しょうもない理由なのだけど。
例えば、有名なのはモンティ・ホール問題だ。天才と言われた数学者、ポール・エルデシュもこのモンティ・ホール問題を間違えたという話がある。どうも人間は確率の問題について、直感ではうまく判断できないらしい。

(本筋とは離れますが、上の『放浪の天才数学者エルデシュ』も面白い本です。「休む時間なら死んだ後にいくらでもある」「数学者はコーヒーを定理に変えるマシンだ」とか言って、世界を放浪してさまざまな数学者のもとを訪ねながら、超難しい数学の問題を解き続けたという人で、生き方がカッコいい。)



三浦俊彦の『論理パラドクス』シリーズは、そんな直感に反するパラドクスやジレンマをたくさん集めた本だ。

モンティ・ホール問題のような確率の話も多いのだけど、「自分とは何か」ということがよくわからなくなるような、哲学的な問題も取り上げられている。そもそも三浦俊彦は大学教授で哲学を専門としている。

例えば、「同一人物であること」という話を紹介してみよう。
あなたとAという人物との、身体と意識を交換する機械が出てくる。これは意識交換機と呼ぶべきか、身体交換機と呼ぶべきか、どちらだろうか。
また、交換後の身体を拷問される場合、あなたの意識を持つAの身体と、Aの意識を持つあなたの身体と、どちらを拷問されるのが嫌だろうか。

Aの意識を持つあなたの身体を拷問されても、あなたの意識は痛くないから別にいいや、と思うかもしれない。
じゃあ、これは交換機とは別の話なのだけど、あなたの身体からあなたの記憶を完全に消してしまって、そのあとに拷問する、というのはどうだろうか。そこにはあなたの意識はもうないのだから、別に拷問されてもいいや、と思えるだろうか。
自分の意識が拷問されるのが嫌か、自分の身体が拷問されるのが嫌か、どちらが嫌かを考えることで、自分は意識と身体のどちらを自分だと考えているか、がわかる、という話だ。
こういう話を読むと、自分とは身体なのか、それとも意識なのか、記憶を失ったあとの自分は自分なのか、そうしたことがよくわからなくなってくる。自分というのは今ここにいる自分なのだ、という当たり前に思っていたことが、揺さぶられてくるのが楽しい。


他にも、『論理パラドクス』には直感に反する思考実験がたくさん収められている。
僕のお気に入りは、純粋な論理と確率から地球外文明が存在しないということを推測する「インスペクション・パラドクス」や、純粋な論理と確率から人類の終末が近いことを論証する「終末論法」などだ。気になった人は読んでみてほしい。
このシリーズは人気らしく、続編もたくさん作られていて、どれも面白い。文庫化もされている。
そのシリーズの中でも『戦争論理学』という本は少し毛色が違って、これは広島・長崎への原爆投下は正当化できるか、を論理学で考えていくという内容になっている。

そんなものだめに決まってるだろう、と最初は思うのだけど、読んでいくうちにその考えが揺るがされてくることになるという、怖い本だ。
大枠としては「原爆投下がなければ、日本政府は降伏するきっかけを持てず、米軍による本土上陸作戦が行われ(+ソ連軍の侵攻)、原爆投下によるものよりももっとたくさんの死者が出ていただろう」「つまり原爆投下はあの当時の選択としてベストなものだったのではないか」という話なのだけど、その考えが本当に正しいのか、さまざまな角度から論理的に検証されていくのだ。


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